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オリンピックエンブレム騒動 「世界標準」デザインの敗北

 正直どうでもいいというか、オリンピック自体にあまり興味がなく、下の記事のような感覚で騒動を見ていた。だいたい、騒いでる人達のTwitterだって、そのアイコンどこのアニメから持ってきたよ?ってのも結構いるじゃね、とか。

 ところが、あれよあれよという間に騒動は大きくなり、とうとう佐野氏の手掛けた作品のなかに、素材の「無断借用」と思しきものが見つかり、一部は取り下げが始まった。これは「パクリ」ではない。けれども、大阪芸大の純丘教授が言うように、「もう駄目かもしれない」。

 何故なら、どうも傍から見ている限り、エンブレムのデザインが「パクリ」かどうか以前に、そもそも「気に入らない」から騒動には火がついているように見えるからだ。発表当初から「喪章のようだ」「躍動感がなくオリンピックらしくない」と散々に評判が悪かったわけだけれど、「気に入らない」から騒動が始まっている以上、たとえ何とか盗作の誹りを免れようとも、収まらないかもしれない。

 タイミングも悪かった。森組織委員会長が「生ガキ」といみじくも言ったように、国立競技場問題は結局のところ「なんでこんなケッタイなもんに多額の出費をせにゃならんのだ?」に尽きていた。その後、東京都のボランティアコスチュームが極端な不評を買い、次いで駄目押しのような形で出てきたのがこのオリンピックエンブレムだった。

 要するに東京オリンピックはことごとく「デザイン」をめぐってケチがついているということになる。

 どうしてこんなことになるんだろう?「パクリ」を追求する人達からはやれコネだの旧態然たるムラ社会だの、「日本社会の病巣モデル」に見立てられて散々にデザイン業界が扱き下ろされているけれども、それが真実なのかどうかはともかく、何故こんなにも東京オリンピックをめぐるデザインは評判が悪いのか?

 端的に言うと、この状況は、デザイン側が見ている「世界標準」なデザインのあり方と、それを受け取る人々の要求とがすれ違っていることを意味する。騒動の当初、多くのデザイナーやアーティスト達が佐野氏の擁護側に回ったのは、「デザイン村」とかいう話ではなく、ある程度いまデザインが置かれている状況を踏まえてのことだったろうと思う。簡単にいえば、この方向のデザインを理解して欲しい、に尽きる。


 身近な例から説明するけれど、今から2年前のこと。iPhoneiOSが、バージョン6から7へとアップされる際に、著名なAppleのデザイナー、ジョナサン・アイブの指揮の下で大きくそのデザインが変更されることになった。それまで「スキューモフィズムデザイン」と呼ばれていたものから、「フラットデザイン」なるものへと根本から一挙に変更されることになる。

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 「スキューモフィズムデザイン」とは、現実のオブジェクトをモチーフとし、それを模倣したデザインのことで、例えば時計アプリなら、時計そのものをあしらった具体寄りのデザインを指す。

 対して、「フラットデザイン」とはなるべくシンプルかつ飾り気のない、デザイン性に特化したもののことで、時計なら針や数字といった象徴的部分や、或いは単に「Clock」といった文字を用いた抽象寄りのデザインを指す。

 「フラットデザイン」はこうしてiPhoneに取り入れられたばかりではなく、Windows8のタイルOSやWindowsPhone、Androidでは先行して実施されており、或いはWebにおいてここ数年大きくあちこちのデザインを塗り替えてきたものだ。

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 明記しておきたいのだけれど、身近なネットやスマートフォンがいまやそうであるように、言うなれば「世界標準」としてのデザインの流れは、現在のところ「フラット化」(この言葉で言うにはやや語弊があるけれど)にある。

 東京オリンピックに即して言うなら、佐野氏のデザインしたものは「フラットデザイン」であり、パクリやらをさて置くなら、「世界標準」の流れのものだ。展開力あるテキスタイルな記号性を重視したのは佐野氏本人が述べているところ。

 対して、「こちらのほうが良かった」としばしば取り上げられるオリンピック招致用エンブレムはやや「スキューモフィズム」寄りのものである。私個人的な感覚としてもオリンピックに具体民族的なものを取り入れたがるのは途上国開催時のそれっぽい気がしないでもない。

 仮にこれらのエンブレムをスマートフォンのアイコンなどに置き換えて考えてみれば、どちらが最近の潮流に沿っているかが理解できるのではないかと思う。

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 オリンピック公式エンブレムの選出がどのように行われたかは委細知らないが(騒動において追求されている最中だと思うけれど)、デザインにいまどきの「世界標準」が求められただろうことは想像に難しくない。それに、「日の丸」を入れ込もうという意思も最初からあったのではないかと思う。「フォーク(民族)」ではなく、「ナショナル(国家)」を入れ込もうというわけだ。これに適ったのが佐野氏のデザインということになる。

 およそのちぐはぐ感は「国際標準」にナショナルなものを継ぎ足したところにあるわけだけれど(「日の丸」を抜けば「完成形」であるベルギーリエージュ劇場のロゴになるわけだが)、それはさておき、概して忘れられがちだけれど、デザインにはもともとのクライアントからの要求がある。最初から東京オリンピックのエンブレムは、誰が手掛けようとおよそ佐野氏のデザインのようなフラットなものになっただろうと予測できる。


 ところで、iPhoneにおけるiOS7の評判はかなり悪かった。様々なチームで急造でとにかく作り上げたという事情もあって、「ダサい」「iOS6が良かった」のオンパレードで、海外でもデザイナー達が「オレが考えたiOSデザイン」をあちこちで発表し、「こっちの方がいい」と評判を呼んだ。「AndroidやWindowsPhoneのパクリ」との声も根強くあった。今回の騒動のパターンにとても良く似ている。

 iPhone本体にしても、評判の良かったiPhone4は今から見ると「ジュエリー」に寄って装飾過多にも思えるものだ。対して、iPhone5以降はエッジ処理をつきつめたシンプルかつフォルマルで完成度の高いものだが、こちらは「サムスンのGalaxyのパクリ」の声しきりである。ジョナサン・アイブが手掛けたデザインからしてこんなありさまだ。

 要するに、「フラットデザイン」はあちこちでつまづいている。「世界標準」の流れであるにもかかわらず、得てして人々の評価を得ることにしくじっている。特に後発になればなるほど苦労している印象がある。

 東京オリンピックのエンブレムは、いまから「世界標準」を求める限り、あらかじめある程度「失敗」や「不評」が運命づけられていたのではないかという気がする。東京都のボランティアコスチュームにしてもそうで、選評は「キッチュでシンプル」というものだった。それに対して、伝統的な「浴衣や法被でいいじゃないか」「忍者とか、それらしいのあるでしょ」といった声が挙がったわけだけれど、ここでもデザインする側とそれを受け取る人々との間にある、デザインに対する認識や要求の断絶を見ることができる。

 端的に言うなら、このままの路線で進める限り、たとえ佐野氏に誰かが替わっても、あるいは何かオリンピックに関するデザインが発表されるたび、ケチはつき続けるということになるだろう。

 
 では、どうすればいいのだろうか?デザイン側の認識と人々の要求とのズレは、このエントリのようにいくら言葉で説明したところで埋まるものではない。スマートフォンやWEBでの「フラットデザイン」の成功(?)は、IT界隈全体の「より機能的な世界へ」といった熱量やビジョンによって支えられている。

 東京オリンピックにはそれがない。もともと開催からして賛否別れたオリンピックだったけれど、いったい何のために開催するのか、人によってばらばらで足並みが揃わない。例えば「よりユニバーサルで、より機能的な世界と文化を実現するのだ」といったような、衝迫力あるトータルなビジョンを持って望むなら、或いはそのように人々を納得させるなら状況は随分と変わるだろう。けれども、どちらかといえば現在は復古的な「オラが国のオリンピック」という欲望に引っ張られがちなように見える。彼らは一方で「日の丸」の意匠されたナショナルなものにつっかかっているわけだが、それと「世界標準」との妙なちぐはぐさがわかりやすく不満を呼び込んでいる。

 東京オリンピックは何を目指し、どこへいくんだろうか?


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