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オタカルチャーと戦争 『GATE-自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり-』と文化帝国主義 

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 いま、『ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり』のアニメ放送がなされている。知らない人のために一応説明しておくけれど、ある日、銀座に突如現出した門をくぐって異世界からの侵略軍がやってくる。これを撃退した日本政府は、逆にこの門の向こうの「特地」に自衛隊を派遣することを決定する。派遣隊員となった主人公たちの異世界での活躍やいかに、というお話。

 よりによって「自衛権」が非常な政治的焦点として渦中にあるこの折に、アニメの放映がなされるとあって、もう始まる前からウヨサヨ激しい争論材料になると予測されていた。そして、予測通り(主に「左」側からの)「トンデモ」発言や批判を取り上げてまとめサイトやブログやで面白おかしく祭り上げる作業が始まっている。

 しかし、正直、祭りを心待ちにしているのはまとめサイトやブログであって、実際のところ「市民団体」なり現実の政治的諸勢力にとってはどうでもいい話である。どこかの議員が取り上げたり、何かの反対運動が起こったなどという話はついぞ聞かない。取り上げられるのも個人のうっかり発言のようなものでしかなく、要するに今のところオタ界隈の自作自演に近いのが『ゲート』をめぐるウヨサヨ論争なんである。

 それでも、あえて(いや、オタだからこそ)踏み込んでみることにするけれど、オタカルチャーと戦争、これはどのように問うことができるのか?長くなるので、はじめにあらかた結論を書いておくけれど、この作品は非常に「文化帝国主義」的で侵略的な構図による作品だと思う。幾つかの観点を経由しながらこれを述べていく。


1)リアリティ

 最初に、大雑把な感想を述べておくけれど、『ゲート』は頭を空っぽにして読む、観るぶんには非常に面白い。多彩なキャラクタ達が多面的にぶつかりあう様は、さまざまに感情をかきたてて飽きさせない、良くできた立体的な群像劇だ。キャラそれぞれの背景が堀り込まれており、各々に彩りある存在となっているのがその面白さの秘訣だろうと思う。相当多数のキャラクタが登場する複雑な群像劇にして捨てキャラがいない。

 なので、例えばこの批判は方向をやや間違えているかもしれない。創作上(特にキャラクタ小説であるライトノベルオタカルチャー系小説において)、キャラクタの「リアリティ」はそれぞれ設定された個性が強度をもっているかどうかで測られるべきであって、実在の人間に近いかどうかを即座に意味しない。群像劇である『ゲート』ではさらにそれが強まる。

 焼け落ちた村におけるリアクションは阿呆な男二人(伊丹、倉田)を冷ややかに眺めるしっかりものの女性陣(黒川、栗林)という対比で描かれるけれど、今後も主人公配下で中心的に活躍するキャラを抜き出して、ほぼ最初の性格づけをする場面でもある。仮にここでPTSDを描くとするなら、この作品の場合、このキャラは後述するような「残酷な」特地において、(テュカのような保護民ではなく)自衛隊員としては足を引っ張りまくる役に立たずな「叩かれ役」となるほかなく、より好戦度を増す結果になっただろう気がする。

 その上で、「リアリティ」を何と捉えるかによるけれども、そもそも戦場を「リアル」に描けば良いかというと、そうではない。或いは、リアルに描けていないから戦争賛美だとか、リアルだから戦争への反対になるかといえば、単純にはそうならない。何故なら、実際の歴史においては、むしろ「リアリズムによって戦争は扇動されてきた」からだ。

 現代美術は、戦争へと向かう流れの中で、ナチスの大ドイツ芸術展や日本の戦争画ソ連社会主義リアリズムといった「リアリズム」によって圧殺されていったという歴史を持っている。戦時の指導者たちは表現に対して「リアリズム」を要求することによって国民の戦意向上を図り、また敵への報復を煽る。戦時ほど、教科書から報道や物語まで死や悲惨や「戦場のリアル」で溢れかえる時代はないんである。(逆にメルヘンが抵抗となったりするような時代である)

 歴史を紐解くのがややこしいなら、次の例での説明でもいいかもしれない。FPSゲームでも、リアルであればあるほど残虐嗜好性や好戦性は高まる傾向はある。

 『ゲート』の場合、リアリティがないというよりも、それはむしろある方向に飛び抜けている。アニメではずいぶん抑制されているけれども、この作品における蹂躙や虐殺、凌辱描写は特に前半、えげつない。「特地」における戦乱とは、まさに「男は皆殺し、あらゆるものは略奪され、女は凌辱され奴隷とされる」世界である。それは単に世界だ、というだけでなくピニャが何度も口にするように、妙に強調されている部分でもある。

 その上で、「こうした残虐こそ旧日本軍がやったことじゃないか」とかいうような無理筋な、一部から作品への批判として述べらているような類推がしたいわけではない。ここでは、これは「旧日本軍が言っていたこと」だというところにポイントがある。

 敵に敗れれば「男は皆殺し、あらゆるものは略奪され、女は凌辱され奴隷とされる」は、敗戦必至な状況においてなお本土決戦を呼号する旧日本軍のもので、私たちにとって非常になじみ深いものだ。結果、沖縄戦での集団自決など夥しい悲劇を招いたとしてあまりに悪名高い。要するにこれは最も古典的にして典型的な、投降など「戦争から降りる」ことを許さない戦意高揚のプロパガンダに他ならない。

 軍でさえ状況によって降伏し投降することが許される近代戦において、市民にすら逃げ場を与えないという言説が何をもたらすかは歴史によって証明されているわけだけれど、今日でも、「中国が攻めてきたら……」という形で、同じ定型文は繰り返されている。なんとなればこの作品に対するコメントとして叫んでいるのを見かけることもある。

 『ゲート』の場合は、「特地」がまさに「そうだから」というこの世界において強調された理由で、自衛隊は軍事的アクションに踏み切っている。炎龍や帝国軍の襲来に対してにとどまらず、城市を襲う残兵暴徒を軍用ヘリ群を出して殲滅し、日本人性奴隷に対する報復として従臣達をハチの巣にし、ついでに威嚇空爆まで踏み切っている。

 端的に言えばこの作品における戦場の「リアリティ」は軍事的アクションを正当化する手段に他ならない(ので、この作品にリアリティを求めることは補強にしかならないだろう)。近代的な軍隊である自衛隊に対して、「向こうの世界」をこのように描く不均等が何をこの作品にもたらしているかについては後段にて改めて述べる。


2)イデオロギー

 自衛隊を描いているからああだ、こうだというのは、多くの人が反論するように早とちり過ぎる話だと思う。

 原則的に、自衛隊はどのように描かれても構わない。襲来した怪獣と戦おうが、タイムスリップしようが、クーデターを起こそうが構わない。創作上においては、何となればアジア諸国に侵略に出ようが革命勢力や在日外国人を虐殺して回ろうが、はたまた、まるで軍事など関係なく美少女隊化してひたすらキャッキャウフフしていてもいいんである。というか、ぶっちゃけ創作において、周りからのあれこれの声を度外視するなら自衛隊は「使いやすい」組織ではある。自衛隊の側は怒るかもしれないが。

 何故なら、自衛隊はその発足以来、個々の事故やら不祥事やらはさておいて、一度も侵略行為はおろかまともに交戦的な行為をしたことがない「宙吊りの」組織だからだ。やってもないことの罪やら道義やらを問うても虚しい。むしろ実績を積み上げている災害復旧や途上国支援について描くほうが、逃げようがなく「使いづらい」。

 勿論、軍隊というものは戦うものであり、まして自衛隊は旧軍を色濃く引き継いでいるではないか、また米軍の事実上の下部組織ではないか、と見ることもできるけれど、そんなことは現実上の自衛隊に対して言うべきことである。逆もしかり、もっと「普通」の軍隊であるべきだとか、核や空母を持てといったことも同じだ。まさにその自衛隊の「色づけ」をめぐっていま国会では争っているわけで、現実の自衛隊自体の位置づけはそちらでやれ、ということになる。(というかアニメで語らずそちらに注力するべきだ)

 一方で実在の人物についてはどうだろうか?『ゲート』では麻生現副総理や社民党の福島現副党首をモデルにしたと思しき人物らが政治劇を演じ、そこらへんが明快な批判ポイントになっている。

 織田信長が女体化する時代なので、目くじら立てるなよと言う人もいるだろうけれど、例えば麻生氏に代わって民主党の前原議員、福島氏に代わって自民党の片山議員あたりがその役を努めて描かれれば、必ず激怒する人が出てくるだろう。もしくはこの性質に気づくだろう。自民党ないし「ネトウヨ」のプロパガンダと言われても仕方のない部分である。

 但し、一方で安倍現首相と思しき人物などは弱々しい人物として描かれており、他の自民党閣僚などもそうだ。簡単にプロパガンダと断ずるのは現実の政治模様と引き比べると実際には難しい。結局、これらの人物や自衛隊を用いて「何を描いている」か、がポイントになる。


 『ゲート』は先述したように、近代的な軍隊である自衛隊に対して、「特地」を残酷で野蛮な、そして未開な世界として全く不均等に描いている。これは軍事だけではなく、文化や技術、生活様式にしてもそうで、難民たちをはじめ「特地」の人々は現代日本の高度な文化、技術によって救済され援助されることになる。

 そのこと自体は異文化が衝突する際、よくありうる話ではあるけれど、留意しなければならないのは、『ゲート』においてこの不均等は極端に一方的なものだということだ。生活協同組合PXを設置して自衛隊員と「特地」の人々との交流が描かれたりなどするわけだけれど、「特地」の人々が自衛隊や現代日本の文化や技術に驚嘆し、賞賛し、また手放しで取り入れようとするのに対して、その逆は一切ない。

 現代科学を根底からひっくり返すような魔法や神霊の存在といったものがあるにも関わらず、自衛隊や日本側がレレイの魔法やロゥリィの宗教を入れることはないし、それに興味を示すことすらしない。「特地」の女性達は現代日本の服飾に喜び、特にテュカは普段着としても好むけれども、逆に栗林や黒川といった女性の自衛隊員達が「特地」の服を着飾ることは全くない。BLに女性騎士団がはまり、古田の振舞う料理に帝国皇子をはじめ「特地」の人々は魅了されるが、自衛隊員たちが現地の食事に驚いたりするシーンは一つもないのである。

 「特地」の異文化は、自衛隊や日本にとって軍事的オプションを是とし、または証人喚問にて福島(らしき)議員を黙らせる手段以上のものではない。或いは「特地」の獣人たちを「コスプレ写真集」として鑑賞する以上のものではない。

 これは「異文化交流」ではない。多彩なキャラクタ達が多数入り乱れて登場するにも関わらず、終始一貫、徹底して「特地」は時に武力発動をも許容する下位の存在であり、この構図は「文化帝国主義」そのものとしか言いようがないだろう。

 『ダンス・ウィズ・ウルブス』や『アバター』のように、近年のハリウッドでも強く意識されるようになった、「文化帝国主義」に対する批判意識、或いはポリティカル・コレクトネスといった視線は全く『ゲート』には存在しない。なお、自衛隊員である主人公を、テュカ(善良な市民)、レレイ(知識人)、ロウリィ(宗教)が囲んで「ハーレム」状態とし、ピニャ(王権)を立てて内乱に介入していく物語であって、要するにより直接的には傀儡国家をつくる植民主義的物語として読むこともできる。

 自衛隊を描いているからではなく、この物語の構造が侵略的でいびつなんである。

 この場合、自衛隊はむしろ軍事力という一つの道具立てに過ぎない。麻生氏や福島氏もその道具立ての一つであって、自衛隊やこれら政治家をも援用して、傀儡国家をつくっていく物語だということができる。

 そして、これは異文化交流をまともに描けないとか、気がつかないとかいった無自覚的なものではなく、恐らく作者においては相当に自覚的なものだ。そこまで首尾一貫して不均等な世界は描かれており、余計なものは一切登場させない。作者のサイトには「文化帝国主義反対」という言葉が掲げられており、この意味を知らないはずがない。ここにおいては、この作品はある種のプロパガンダと見なすことができる。

 当の自衛隊や麻生氏はそんなこと考えちゃいない、と激怒しても構わないわけだが、頭が痛いのは、このアニメに自衛隊そのものが協力して自衛官募集ポスターをつくったりしていることだ。

 多民族や全世界を相手にするハリウッドならいまや通らないような、古臭い、あからさまに自画自賛や文化帝国主義的な姿勢が見えやすいこの作品、発展途上国や現に自衛隊PKOに出ている諸国の人々からすれば、呆れるような代物じゃなかろうかと思う。むしろ自衛隊や日本の評判を落とすだろうことのほうが心配になってくる。「ジャパニメーション」は国策としてあからさまに文化帝国主義をすすめるものだ(だから先に進んでるハリウッドにゃ勝てないんだよ)とよく批判されるけれど、それをアニメ自身で体現してどうすんだという話である。


3.ファンタジー

 最後に、戦争モノをめぐる議論で良く「ファンタジーにつっこみを入れるなんて野暮」という反論があるんだけれど、この場合は、「レイプはファンタジー」とかいうレベルのファンタジーなんである。

 別にレイプもの漫画やら動画やら構いやしないし、男の性として好きに楽しめばいいわけだけれど、それが現実には犯罪であり、「女が最後に快感に目覚めたりするなんてファンタジー」ってことを理解できていないならアウトである。ファンタジーでも、それは「いびつなファンタジー」だとちゃんと理解し自覚しているか?が問われる。

 『ゲート』の場合、これは非常に面白いんだけれど侵略的である。それに尽きるわけだけれど、逆にこれを理解していないならヤバイ。あまつさえこの作品をもとに「ブサヨ叩き」しているなど、目も当てられない。

 わざわざ(このブログのように)議論する必要なんてないんだけれど、自分なりにつっこみいれながら楽しむのが正解かもしれないよ。