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オリンピックエンブレム騒動② グローバリズムとナショナリズムの軋轢

 何を踏み抜いたのか、前回のエントリはかなりの反応をいただきました。コメントに対する返信含めて、続きを書きます。

 「世界標準」を目指し、これにナショナルなものも継ぎ足そうとしたものが東京オリンピックエンブレムであって、それは人々の求めるものとはすれ違っていた。というのが前回のエントリの要訳。


(では、カードをひっくり返してみてください。)

 さて。この「世界標準」は、「」をつけて濁した言い方で、察しのいい方は理解されていると思うけれど、横文字にしてみればすぐ正体がわかる。要するに「グローバル・スタンダード」なるもののこと。ちなみに日本でしか通じない実は和製英語である。こう書くとあまりにバラバラにニュアンスがバラけるので(それこそがこの騒動の性質なんだけれど)、「」づけで日本語で書いた。

 なので、世界でこんなデザインが流行してますよ、主流ですよ、デザイン史上の必然ですよ、標準なんですよ、というのとはやや意味合いが異なる。或いは、それが優れたデザインであるとか、これを理解しない者は芸術的センスがないとか、そんなことも即座には意味しない。(文字通りそうと受け取った方からは「勉強不足」や「底が浅い」などのコメントを頂きましたが、そうではないのです)

 デザインにおける文字通りの世界的な標準なのではなくて、端的に言えばグローバリズムを志向するデザインのこと、を意味している。

 ITやネットがグローバリゼーション第一の尖兵であることは改めて詳細するまでもないことだけれど、「フラットデザイン」が「世界標準」だ、というのは、いまのところGoogleMicrosoftが「グローバル・スタンダード」(なデザイン)だという、つまるところ現在の状況そのままを述べただけに過ぎない。

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 その上で、「フラットデザイン」が持っている意味合いは、過去から連綿と続けられてきたタイポグラフィやロゴなどとは質的に異なるように思う。いや基本は同じかもしれないが、そこには「より」熾烈な意志がある。平たく言えばGoogle先生らのグローバリズムを体現するのが「フラットデザイン」なんである。


 「史上最もイノベーティブで、世界にポジティブな改革をもたらす大会とする」という、どこかで聞いたような「グローバルな」ビジョンを掲げているのが東京オリンピックだ。ひょっとしてこのビジョン、「パクリ」を追求する人達からしてあまり知られていないのかもしれない。(https://tokyo2020.jp/jp/vision/

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 こうしたビジョンに基づいて、当然、公式オリンピックエンブレムは作成を要求されただろうと思われ、これに「日の丸」を加えることも恐らく最初から要求されていたのではないか、というのが筆者の見立てであり、これに従ってできあがったのが佐野氏のデザインということになる。コネやら情実以前に、まず何をビジョンとしたかったのか、である。

 「グローバル・スタンダード」が実は海外では通用しない和製英語だと先述したが、オリンピック委員会ならびに佐野氏やこれを選出した委員会が思い描いた「グローバルに通用するデザイン」があのエンブレムなのだろうということになる。

 (「フラット」という性質だけで即座にそう位置づけるのは確かにかなりの飛躍で)性急にその形式だけでエンブレムをそのように位置づけるわけではない。オリンピック委員会的「グローバル」(とナショナリティの接合)はあのような極端にフラットでややちぐはぐな形で表れた、ということになる。

 それはどのような結果をもたらすか?

 それがiPhoneOS7を用いた類推で、デザインを変えるには後発で、OSの固有性から離れられないiPhoneは人々からの評判を得るのに苦心惨憺なありさまだった。

 ぶっちゃけユーザーの多くはiPhoneOS7にAndroid等とは違う「らしさ」や「さらに上回る何か」を求めていたわけで、東京オリンピックエンブレムに人々が求めていたのもそれだろう。

 「パクリ」批判側におもねった言い方をするなら、「グローバル・スタンダード」と「ナショナルなもの」、そして或いは固有でフォークなものを上手く接合して人々に提示し説得する力がデザイン側になかった、ということになるだろうか?ビジョンに謳う「イノベーション」失敗である。

 ぶっちゃけて言うなら、和製英語たる「グローバル・スタンダード」が日本社会に持ち込まれて以来、あちこちでトンチキな悲喜劇が巻き起こっているわけだけれど、要するにこれを拡大して大きくしたものが東京オリンピックエンブレム騒動ではないのか、と。

 「世界標準」の語につっかかった方々には申しわけないけれど、筆者が描きたかったのはデザインの優劣ではなく、バラバラなビジョンをめぐって争う人々の構図に尽きる。


 以下はある程度別の課題の話。エンブレム騒動に関してはここまでであとは読まなくていいです。


 「グローバリズム」と「ナショナリズム」、そして固有のものとで軋轢を引き起こしているのは何も東京オリンピックだけではなくて、実のところいまの日本全体がそうだ。

 「グローバリズム」、新自由主義という言い方をする場合もあるけれど(厳密に言うなら違う)、新自由主義ナショナリズムは特に90年代以降、日本の政治における車の両輪だった。

 このあたりは最近出た中野晃一さんの『右傾化する日本政治 (岩波新書)』が首尾よくまとめているけれど、一見、相反するかに見える新自由主義ナショナリズムだが、グローバリズムによって市場開放、規制緩和、小さな政府と、縮小していく政治権力を、ナショナリズムの強権が補強することによって互いを補強しあってきた。

 要するに権力が相対に小さいから吠えるのであり、また小さいからそれを必要とする。自民党の「変わり者」だった小泉元首相が「改革」の巨大な声援によって断行をなし、「お友達内閣」に囲まれた安倍首相が非常にイデオロギッシュな支持層を背にするのもこの基本的な構図による。

 ところが、それはたとえば憲法という強力に固有なものにぶちあたると一挙にけつまづく。いや、一度けつまづいてしまうと、一挙にその基盤の弱さが露呈する。

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 あれほど強力に見え、周りを取り囲む人々が「我が世の春」を謳うかのごとき発言を繰り返していたにもかかわらず、SEALDsの蜂起を狼煙にして、学者たちは一斉に反旗を翻し、主婦や高校生や老人達が反対を声にし、これまで口を閉ざしていたような多くの著名人や市井の人々がいまや発言をし、と総崩れである。

 支持者たちは「いや、そんなことはない」と声を大にするし、勿論反対だけが著名人や市井の声ではない。彼らも慌てて対抗の陣を張る。けれども、それも含めて誰が見ても現在の政治はかなり混乱した状況にあるとしか言いようがない。グローバリズムは自由と民主主義を求める声とアメリカからの要求とに分解している。ナショナリズムは反米や反中韓から屈服を罵る声と、なお復古主義に期待をかける声とに分解してる。

 随分と従来からの主張と姿勢を変え、バラバラに分解したピースを拾い集めるように、仔細で非常に長々とした「国民統合的」な70年談話を発表した安倍首相の立ち位置は、いまそんなところにある。パーツは集まるのか、今後の行方は分からない。


 一方で「裸の王様」と化してしまったオリンピックのエンブレムは「もう駄目かもしれない」。東京オリンピックそのものの存立にさえ及びかねない一連の騒動は、やはりいまこの国の状況をある程度反映しているように見える。繰り返す、東京オリンピックはどこへ行くのだろうか?或いは何を目指すのか?