読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ヲタ論争論ブログ

ヲタ、ネット界隈をめぐる論争的ブログです

『艦これ』の政治的な位置について。ー『艦これ』は海上自衛隊であるー

 アニメ一期も終了し一段落ついたところで、あらためて『艦これ艦隊これくしょん-』について。その政治的な位置について。


 『艦これ』は海上自衛隊である。

 かつての戦艦の名を受け継ぎ、艦娘として復活したのが『艦これ艦隊これくしょん-』だとするなら、それと同じことをやっているのが戦後の海上自衛隊である。かつての名を継ぎ、「こんごう」「はるな」「きりしま」「ひえい」の四姉妹、「いせ」「ひゅうが」や、「あたご」「あしがら」「ちょうかい」「みょうこう」らの姉妹達、「しまかぜ」「はつゆき」「むらさめ」その他諸々も、それぞれ艦型は異なれど「護衛艦」として戦後復活している。そして、これらはあくまで「護衛艦」であって「戦艦」ではないんである。

 別に穿った見方をしたり、無理な類推をしているわけではなく、プロデューサーである田中謙介さん当人が原作を手掛けた『いつか静かな海で』を読むとはっきりとわかる話で、ここでは艦娘達の意思(遺志)を継いだものが戦後自衛隊護衛艦であると描かれる。『艦これ』を論じる人達はまずこの漫画を読んでおくべきだと思う。少なくとも田中さんにとっては戦後の海上自衛隊のありかたが念頭にあるということになる。


 自衛隊が軍隊であって軍隊でなく、その位置づけも宙吊りな位置にあるのと同様、『艦これ』もまた不可思議な設定の上にある。敵は曖昧模糊として正体不明であり、艦娘たちは艦なのか娘なのかよくわからない。

 アニメ版『艦これ』はこうした曖昧さを明確にヴィジュアル化したさらに座りの悪い物語に思え、ちょうど自衛隊をアニメ化するとこんな感じになるのではないかと思いながら筆者は観ていた。自衛隊は(現実はどうあれ)、ガチ過ぎる軍隊であっても、また腑抜け過ぎる学園として描かれてもいけないんである。また、たまたま演出上の偶然だろうけれども、姿なき司令官は顔なき国民達の意思、文民(政治)の統制を受ける自衛隊のありかたによく合致していた。


 『艦これ』サービスが始まった時、多くのプレイヤー達の心を捉えたのは、「艦隊」、要するに戦艦や空母の方だったように思う。田宮や青木のプラモデルがちょっとしたリバイバルブームになったわけだけれど、「コレクション」を進めるうちに顕現する、当時世界でも最精強と謳われた旧帝国海軍の威容やこれらが激突する機動艦隊戦を想起してプレイヤー達は心躍らせていたことは間違いない。よって彼らはアニメの「水上スキー」に失望する結果になった。

 ゲームの時点で、補給や資源を重視するゲームであるをたびたびコメントし、これを無視して大量の餓死者を出した旧軍との違い(または反省)をちらほらと窺わせるものだったけれど、さらにアニメ版『艦これ』で描かれたのは旧軍との違いである。

 アニメで描かれたのは旧帝国軍の「生きて虜囚の辱めを受けず」ではなく、必ず生きて帰ってくるべき、暖かい仲間や先輩や姿なき司令の待つたたかいであり、またビンタも営倉も理不尽なしごきもない自発と創意のトレーニングや、時折巻き起こる騒々しく賑やかなお祭りだった。言うまでもなくここに反映しているのは戦後の平和的民主国家における理念的な、或いは田中プロデューサー達が思い描くありようである。


 しばしば『艦これ』は左右から指弾を浴びる。典型的な軍国化から先人たちへの侮辱といった様々な方向から批判がなされ、たびたび話題となる。けれども、どうにもそれらの批判や非難が往々にして上滑り、皆に白けられてしまうのは、端的にいえば『艦これ』が旧日本軍ではなく戦後の自衛隊(の理念的なありよう)だからなんである。もしくは、自衛隊の「平和のための開かれた自衛力」というエクスキューズをうまく応用した結果だとも言える。

 正確に言うなら、アニメ化以前の、軍艦に熱狂したプレイヤー達に関してはミリオタ批判というのは一定程度の正しさはあるわけだけれど。


 しかし、アニメ版『艦これ』はさらに先の事態へ突入してしまった。

 周知の通り、最終話で艦娘達はかつての「ミッドウェー海戦」を勝利によって超えていった。この1クールにおける「暁の地平線に勝利を刻む」は、太平洋戦争の転換点となるミッドウェー海戦に勝利する、だったということになる。

 そうやって歴史を超えることは、いったいどういう意味を持っているのだろう?ここから先は架空戦記の領域に入るわけだけれども、歴史のくびきを脱した艦娘たちは、ぐるぐるとめぐる閉じられた「反省」と「訓練」の時期を超え、どうなるのだろう。列記とした「艦隊」になるのだろうか。それともまた違うものになっていくのだろうか。

 『艦これ』が現実の政治、要はいまの自衛隊をめぐる動きにリンクするのはこの点だ。だからといって一足飛びに批判されるものではなく、現実の動きを反映しているだけということもできる。しかし、あまりに無邪気な接近に、どうにも居心地の悪さを筆者は感じる。

 さてさて。