ヲタ論争論ブログ

ヲタ、ネット界隈をめぐる論争的ブログです

「やんちゃ史観」または「いじめっ子史観」 侵略と認めない人達

 女性教師を閉じ込めて爆竹を投げ込んだり、同級生を全裸にして性器に落書きしたりしたという、熊田議員と中川議員の「いじめエピソード」。既に大きな話題となっているので再述したりしないけれど、熊田議員の秘書が「スカートめくりのようなもの」とコメントしてさらに炎上したりしている。

 これ、どこかで聞いた話だなあ、と思いながらニュースを見ていたのだけれど、

 を見て理解した。要するにいま、安倍首相なりいわゆる「愛国保守」なりが掲げる「正しい歴史認識」なるものと全く一緒だ。

 「あの頃はやんちゃ(戦争)したけど、若かったし(70年も昔の話だし)、そんな時代(帝国主義時代)だったんだから、よくある話だよね(欧米もやってたよね)?いじめ(侵略)じゃないよね?それよりさ、大事なのは今でしょ?(いつまでもぐだぐだとウゼエんだよ)」

 全く言ってることは熊田議員や中川議員と同じだし、開き直る道筋もそっくり。「やんちゃ史観」ないし「いじめっ子史観」と呼んでいいんじゃなかろうか。

 たまたま自民党の議員二人が失言してしまったとかいうものではなく、ひょっとして、いまこの手の考え方こそ政権党の本質や本音なんじゃなかろうかと思いながらニュースを見ている。

 
朝日新聞はボケ過ぎじゃなかろうか

 良かった。同じ感覚を持っている人達がいて。

 「朝日新聞 機動戦士ガンダム版」、とりあえず入手してみたんだけれど、いくらガンダム展主催記念とはいえ正直ボケ過ぎだと思う。私は一介のオタだけれど、いやオタだからこそ全く喜べないぞ。わざわざ8月6日に発刊するのは何故だろう?ガンダム展開始の7月18日などではない理由はどこにあるのだろう?

 しかも内容も特段見るべきところもない、単なる物語や設定の紹介やに尽きていて、論説もなければ解説にさしたる鋭い切り口もない。一応、「宇宙人語」なる天声人語パロディがあるけれど、これも戦争が終結して良かったと呟いているだけ。冨野監督のインタビューもあるけれど、これも『ガンダム Gのレコンギスタ』の宣伝どまりだし。

 単なる名義貸しで、企画展側主導の紙面づくりなんだろうけれども、これ、あまりに朝日新聞自体の名を落としちゃいないかな?ざっとネット上のニュースを見て回る限り、「どうせ捏造」、や「どうせ左寄り」といった叩きが多い感じだけれど、これを恐れたのかな?

 自分は逆に、朝日新聞らしい見識で『ガンダム』を読みとるならそれはそれで納得していただろうと思うのに。

 ニューヨークタイムズは70年前の原爆投下の日、単なる解説どまりや大きな戦果に浮かれるようなことなく、

我々は壊滅の種をまいた。この戦争を通じての我々の爆撃はほとんど都市、そして民間人を標的にしていた。我々の爆撃は敵より効果的で、より壊滅的な打撃を与えたため、アメリカ人は「破壊」の同義語となった。そして我々は初めて、計り知れない効果を持つ新たな兵器を導入した。これは速やかに勝利をもたらすかもしれないが、より広い憎悪ももたらすだろう。我々自身に壊滅をもたらすかもしれない。

 との深刻な認識をもって記事を書いている。(以下の記事より引用)


 翻って、ガンダム一年戦争について、朝日新聞は何を書いているんだろう?

 互いに少年兵まで動員した戦争であったこと、独裁だけでなく、優生主義をめぐる争いであったこと、人類の半数を死滅に追いやるような破滅的な戦争であったこと、いくらでもネタはあるというのに、解説ばかりにとどまっている。まともにガンダムにとりあってないってことじゃなかろうか?

 だから、オタだからこそ喜べない。

安保法制をめぐって暴走する人々

 暴走しているとしか思えない。公安だの就職だのを持ち出して脅すなんて、「最後の手段」だろうに。まだ国会の会期も序盤でコレなんだから、何が起きているのかと思う。法案を推進したいのならその理由を述べてまず争うなりすべきであって、これじゃいきなり「逆ギレ」だ。恐ろしいとか何とか以前に、私はあまりの滑稽さに吹いてしまった。正直、「ボクにはスーパーハカーの知り合いがいるんだぞ!」レベルの発言なんだが、彼ら、またはこの手の発言に賛同する人々は気がついているのだろうか?

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 彼らは、SEALDsなどの反対運動が大衆的なものだと信じられず、妄想激しくレッテル張りを繰り広げている。しかし、彼らにこそ向けて説明する、それは大衆的なものだ。

 何故なら、ネットにおける先鋭化や過激化はもともと「右」や「保守」側から始まったものだし、実際には彼ら自身をこそ指す性質だからだ。「過激派」とは彼らのことである。

 「ネット右翼」(ネトウヨ)の多くは、熱烈に自民党を支持する傾向が強い。組織員顔負けの宣伝的な書き込みや対立勢力への罵倒を厭わない。けれども、彼らの殆どは自民党員ではない。自民党ネットサポーターズクラブなどもあるが、それもその一部しか組織化できていないはずだ。統一教会原理研)の暗躍などが言われることもあるけれど、これもたかが知れていると思う。

 自民党は、かって547万人もの党員数(1991年)を誇ったが、現在は89万人にまで激減している。それも一時期はあと10年で9割が他界すると言われたほど高齢化が進んでおり、組織の弱体化は深刻だ。2年前の自民党の政権復帰以来、16年ぶりに増加に転じているけれど、それでもかつての姿は見るべくもないのが実情だ。

 こうして、自民党組織が衰退してぽっかり空いた空間に位置するのが「ネット右翼」ないし「ネット保守」だと見なすのが妥当だ。本来なら自民党に組織化されていたはずの層が浮遊し、勝手に政治化し尖鋭化しているのが彼らだと思われる。

 そして、あえて言うけれど、組織化されていないからこそ、彼らは「下劣」で「愚か」だと言われる存在なのだろう。

 これまで数々の事例がある通り、あまりにも彼らはデマや謀略紛いなものに流されやすい。或いは頼りやすい。そして剥き出しのレイシズムや上述したような脅迫紛いに落ちやすい。嘲笑や口汚い罵倒、そして聞く者が耳を塞ぎたくなるようなそれは、まともな政治的訓練をしていない証拠でしかない。

 彼らは、「政治」というものを何か「そういうもの」だと勘違いしている。または、わざわざそう思い込んでいる。組織員であれば結果的な不利を考えてあからさまになど絶対にやらない謀略ビラまきや個人的中傷などを堂々とやってのける。

 だが、世間にどのようにイメージされているかは別として、存外、政治家や運動員、組織員当人たちというのは清冽な人々だ。というより、そうでなければ国民一般はおろか内輪からですら支持を集めることは出来ないし、政治勢力としてあり続けることができない。彼らは政治的訓練を積んだ人々であって、時折飛び出す例外を除いて、少なくとも表向きにはやってはならないことをよく見極めており、人々に面してどのように振舞えばよいかを良くわきまえている。優秀な「営業マン」や「人格者」や「人気者」でなければ務まらない。

 意外に思われるだろうが、例えば安倍首相と共産党の志位委員長とは、同じ年齢、同期当選ということで平たい場では親しく対する関係だと報じられている。勿論、腹中に何を秘めているかは知らないが、たとえ公的には激しく論戦し主張で衝突しようとも、それを置けば親しく互いを認めることができる。それが民主的「政治」の原則であり基本的な振る舞いのマナーだ。

 こうした組織の統制やまともな指導や教えを受けず、或いはその姿をよく知らず、そして彼ら「ネット右翼」や「ネット保守」はネット越しにいきなり人々に訴えかけることしか知らない。恐らく、政治的運動に携わるには、ある種の訓練と能力と振舞いが求められるということにさえ気づいていない。


 自民党組織の最盛期に、私はひょんなことからまだ当選2、3期目頃の「坊ちゃん」だった谷垣禎一現幹事長の選挙講演会を見にいったことがある。その頃から自民党の高齢化は覆うべくもない状態だったが、会場では品の良い老婦人たちが穏やかに居並び、青年商工会議所あたりから来たと思しき仕立ての良いスーツを着た男たちがあれこれと動き回っていた。地域の有力者たちが「谷垣の坊ちゃん」を支えるのだという空気であり、なるほど自民党とはこういうものかと思った覚えがある。

 その谷垣さんがやがて自身の派閥を率い、総裁までを争うようになった麻生政権時代、秋葉原で「オレたちの麻生」こと麻生首相を迎える形で行われた選挙演説のニュースを見て、私はあまりに観客の「品が悪くなっている」ことに驚愕することになった。場所や時代の違いもあるだろうが、サングラスをした化粧の濃い女性や、ポン引きかと見まがうようなだらしない出で立ちの男たち、そして高齢のオタクとおぼしき人たちが目立ち、明らかに動員のかかる層が変わっていて我が目を疑った。彼らは熱狂的に麻生首相の名を呼ぶが、それは金切り声に近く、かえって沈みゆく船に乗る悲鳴を思わせた。その予感はやがて政権交代という現実となる。


 政権に復帰後、自民党は危機意識をもってペナルティまで課し、組織員の拡大に取り組んだ。2年で約20万人を増やすという、16年ぶりの大規模な拡大攻勢に出ている。浮遊する「ネット右翼」や「ネット保守」たちを組織へと急速に吸収しつつある状況に見える。

 だが、約90万の党員のうち20万人がここ2年で入った新人だという、かなり「水ぶくれ」甚だしい状態だ。それがいわば逆汚染となって自民党の「劣化」を招いていると見ることもできる。安倍首相の「ネトウヨ化」を懸念している人も数多い。

 これから、彼ら「ネット右翼」や「ネット保守」達は、政治的経験を積み、「まともな」政治勢力となっていくのだろうか?それとも、「逆汚染」を広げてついに自民党を食い潰してしまうのだろうか?少なくとも就職やら公安やらで脅迫しているようでは望みは薄い。「内側」からこれを指摘する者が出ないのなら、なお一層悲観的だと言える。誰か「まともに」領導する者はいないのか?

現代美術とオタクの捻じれた立ち位置

 SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)が登場したとき、私はこの歌を即座に思い出した。

 RAYはiTunesレゲエチャート1位、オリコンインディーズ3位を飾ったこともある関西レゲエシーン注目の新星だ。「日の出ずる国」はかの三木道三さんらのプロデュースによる。この曲を初めて聴いた時、いま、こんなにも誠実で心響く歌が出るんだな、とまざまざ目の覚まされるような思いがしたのを覚えている。

 どんな共振が広がっているかは、Twitterの「#日の出ずる国」に一部を見ることができる。

 潮目が変わりつつある、と思ったのはこの曲が出た昨年初めごろのこと。この頃にSEALDsの前身であるSASPL(特定秘密保護法に反対する学生有志の会)は結成されている。安保法制などに対して、立ち位置や考え方は違ったりするのだろうけれど、いま、SEALDsの学生たちが握る拡声器は、やはりRAYのこのPVを想起させる。


 いま、現代美術の領域はポリティカルな感性を高めつつある。「戦争と美術」はここ10年の現代美術のキータームだが、その主導的な役割を務めてきた批評家の椹木野衣さんはいま、盛んにSEALDsをめぐる様々な応援ツィートをリツィートしている。会田誠さんはMOT(東京都現代美術館)で開催中の「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」展に、「文部科学省にもの申すの檄文」と「首相に扮して世界平和の為に鎖国を説くビデオ作品」などを出している。

 そして、上記の会田さんの二作品に対して撤去圧力がかかっていることに、ミヅマギャラリーの三潴末雄さんが激怒している。

 会田さんのアイロニーやアンチテーゼっぷりは相変わらずで、3年前にも女性団体から抗議されて問題化したことがあるが、この時は展示撤去とはならなかった。よりによって「ここはだれの場所?」を問うこの展覧会で仮に作品撤去となれば、かなり深刻な、そして象徴的な問題となるだろう。

(そうこうしている間に会田さん自身のコメントが出た)


 さて、現代美術と「オタク」だけれど、これらは妙に捻じれた立ち位置関係にある。或いは、「オタク」は現代美術に対してずっと誤解をし続けてきたと言ってもいい。

 森川嘉一郎さんのキュレーションにより、ヴェネチアビエンナーレ建築展、日本館のテーマが「おたく:人格=空間=都市」となったのは2004年のこと。カステッロ公園にオタ部屋が現出し、「わたおに」こと『週刊わたしのおにいちゃん』の大嶋優木さんがポスターイラストを手掛け、海洋堂のフィギュアが並べられ、コミケ準備会も展示に参加した。

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 これはエポックメイキングな出来事で、当時急速に拡大しつつあり、『AKIRA』や『攻殻機動隊』の世界的評価によって自信を深めつつあったオタカルチャー側の人々は、いよいよオタカルチャーが「世界的アート」として認知されたのだとの「誤解」を進めていくことになった。以降、オタカルチャーは印象派にも影響を与えた「浮世絵=ジャポニズム」の正統な後継者と見なされたり、「クールジャパン」の掛け声のもと、日本を代表する世界的文化として行政的方策にも組み込まれていくことになる。

 このとき、「誤解」したオタカルチャー側にとって現代美術の代表者と見なされたのは、美術館も建てられた李禹煥や大規模なアートプロジェクトを進める柳幸典などではなく、オタカルチャーとの境界線上で踊っていた村上隆さんだった。

 この道化役を、漫画家の細野不二彦さんは『ギャラリーフェイク』で「パクリ、何も生み産みない簒奪者」として激しく指弾し、オタカルチャー側の人々からの喝采を呼んだ。オタカルチャー界隈の人々にとって、いまでも現代美術と言えば村上さんの『芸術起業論』のイメージだろう。

 しかしこれは、「おれが世界に紹介するぜ」「いや、お前はすっこんでろ」な、「誰が旗振りマネジメント役を務めるか」を争うという、ハタから見れば単なる内輪揉めでしかない。実際、村上さんはオタカルチャーのうち、やや下品な部分を体現していたことから批判されたところが大きく、要はもっとマシな紹介をしろという話に尽きる。敵対者というより何となれば「共犯者」だと言ってもいい。


 オタカルチャーが「ジャパン・アズ・クール」に踊り狂騒を繰り広げる一方、現代美術は全く異なる方向に舵を切っていた。キュレーションを務めた椹木野衣さんが「現代美術をリセットする」と公言した、「日本ゼロ年」展(1999年)以降、日本の現代美術における最も重要な先鋭はこの線上にある。

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 「日本ゼロ年」はゴダールの『新ドイツ零年』を想起させるタイトルだが、日本の戦後現代美術を、ありもしない、というかさしたる歴史もない「画壇」や「既存の権威」にわざわざたてついて意味なく空転するような「悪い場所」と見なし、その再構築を呼び掛けるものだった。これはアヴァンギャルドの批判性を現実社会において取り戻す試みであり、「戦争と美術」や「国策と美術」といったキータームがここで浮上してくる。


 オタカルチャー側では大塚英志さんが呼応する形になっている。彼は、「すでに戦時下に入った」との認識のもと、国策化していくオタカルチャーの胡散臭さについて警告する立場を取っており、上述の村上隆さんに対しても、この立場からの批判を投げかけている。

 だが概観してみれば、総じて「オタク」側からの反応は乏しい。児ポ法をめぐって盛り上がったりもするのだが、捻じれた立ち位置にあるオタカルチャーにとって、現代美術といえば村上さんをはじめとする「共犯者たち」の姿しか見えていない。

 実際、オタカルチャーが「クールジャパン」として我が世の春を謳う一方で、現代美術は辺鄙な島々をめぐる瀬戸内国際美術展にのべ100万人を動員するなどの成功を見せているのだが、秋葉原と直島では、これが同じ日本なのかと目を疑うほど互いに異質な光景が繰り広げられている。美術作家と商業作家では根本的に性質が異なるとはいえ、互いに照応するところが-批判や反批判でさえ、殆どない。

 この乖離の仕方がこの10年、私にとっては不思議で仕方がなかった。興業イベント化する状況に批判はあるとはいえ、現代美術は「戦争と美術」のキータームにおいて、国策に取り込まれていく美術芸術の危険性やその枠組みの問い直しを行ってきた。一方でオタカルチャー側は現代美術の「共犯者たち」をタテにして世界に冠たる「ジャパニメーション」の夢を見続けている。

 潮目は変わりつつある。いずれ状況は変わるのだろうか。

ヒトラー、というとしゃしゃり出てくる人達

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 ヒトラーナチスといえばファシズムや侵略者の代名詞であって、政治の世界では相手を独裁的だとか侵略的だと罵倒する際によく用いられる「頻出語」である。ちょっと前なら橋下大阪市長に対する批判として用いられ、つい最近なら麻生副総理が手口を見習うべきと発言して物議を醸し、そして今回は安倍政権による安保法案の強行採決をめぐる罵倒として飛び出した。

 それは日本に限らず諸外国でも「良くある光景」なんだけれど、私がどうも前から気になっているのは、こういうケースがある度に、言い方は悪いんだけれど「横からしゃしゃり出てきてヒトラーについて解説したがる人達」のこと。ちなみに、togetterにまとめられた中心的な論者のことを直接に指すものではないことをあらかじめ述べておく。


 彼らはしばしば、客観的に詳しく解説をするつもりながら、ヒトラーといま当事となっているその出来事がいかに「違っている」かを滔々と説明することに心血を注ぎがちだ。私もアドルノや20ー30年代アヴァンギャルド芸術を研究テーマとしてきた人間だから、ヒトラー政権の成立や経緯にはそれなりに詳しいつもりなんだけれど、彼らに同調して議論に加わることにはどうにも躊躇を覚える。

 彼らの無邪気な解説は、だいだい「とても違うので」(まるでヒトラーだとして)批判される側に罪はない、という結論にそのまま落ちてしまいやすい。解説それ自体は構わないのだけれど、だが問題は、問題そのものがまるで「ない」もののように往々にしてなってしまうことだ。

 今回の場合は、民主党が唱えるそもそもの「非民主的だ」という批判はどこへいった?という話である。弁解ないし反論するなら、対応する自民党の手続き上の正当性を訴えるべきであって、ヒトラーがどうだったと判断することで何かが決することではない。過去と現在の無邪気な反転や混同がここではしばしば引き起こされる。

 或いは、「(ワイマールの)民主体制はヒトラーの登場を防ぐことができなかった」というおおもとの命題はどこへいったのだろう?個々の選挙結果をこれは指しているのではない。大きな歴史的反省としてワイマール共和国の脆弱さを警告として読み取るものだが、これはどこへいった?


 一方で例えば民主党有田芳生議員はよく批判者から「有田ヨシフ」つまりスターリンだと譬えられる。まあ名前がそうなんだけれど、この時、実際にスターリンがどうだったか、またはその違いなどを長々しく解説する向きが現れる場面など見たことがない。

 毛沢東にせよポルポトにせよ、あるいはカダフィにせよ、悪名高い独裁者たちは他にもあり、これに譬えられる政治家達もいるわけだけれど、この場合も同様だ。何故スターリンにせよ毛沢東にせよ、その場に長々しく解説する者や議論したりする者たちが現れないかといえば、彼ら独裁者たちの悪名は現在の日本において確定的で揺らぎがあまりないからだろう。

 だが、現在の日本において、ヒトラーナチスに関しては何故かわんさかと解説者達が現れる。ヒトラーナチスは、何故かそういう磁力を強力に孕んだ領域なんである。


 当の本国ドイツでの最近の例としては、ギリシャ危機をめぐっての出来事が記憶に新しい。ナチス時代の軍服を着たドイツのショイブレ財務相が、「君たちの灰を肥料にすることを検討している」と、ホロコーストを思わせるような台詞をしゃべっているという風刺画をギリシャの地元紙が掲載したという出来事だ。対するドイツ政府の反論は、「言論の自由は支持するが、風刺画は侮辱的で、作者は恥を知るべきだ」と端的なものだった。ヒトラーなどとんでもない、侮辱だ、の一刀両断である。

 本国ドイツで、こうした事件が起こるたび、わざわざ横からナチスについて解説を加えるのは主に「リビジョニスト」達の仕事である、ということは頭の隅に置いておいていいかもしれない。

 ぶっちゃけて言うなら、わんさかヒトラーの解説者が現れるのは、それに対する価値判断がこの日本では揺らいでいるという状況を反映しているのではないかとうっすら疑っている。その無邪気さは、

無邪気なホロコースト・リビジョニスト

 の記事などをどうしても彷彿とさせる。

 とはいえ、再び述べておくけれど、togetterの中心的な論者たちはかなり良識的、意識的で注意深い。歴史における価値判断と、現在との区別に関してもかなり慎重な姿勢であるように思う。それでも、大挙して押し寄せる「揺らいだ」人達に対して非常に苦労している姿が見て取れる。

 歴史に関して、議論することはとても大切なことで、そこには大きな価値がある。しかし、政治的事件のたびにそれについて述べようとすることは、現在の政治的な姿勢をそのまま願望として過去に照射することに繋がりやすい。それを「リヴィジョニズム」とひとことで言うわけだけれど、危なっかしいとハラハラしながら推移を見ている。

SEALDsの国会前デモにいってきたよ

 何がこうも一介のオタを急きたてるのかわからない。けれども、とにかくこの目で現場を見てみたい。そう思いつきのまま矢も盾もたまらず新幹線に飛び乗って、SEALDsの国会前デモを見てきた。彼らが企画した3日間の連続緊急行動の最終日、7月17日金曜日の夜のこと。

 あれやこれやと話題になり、毀誉褒貶の激しいSEALDsだけれど、出来るだけ広く歩き回ってみて、SEALDsデモの全体像を掴むようにしてみた。実際のところを現場の視点からレポートしてみようと思う。

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 さて、最初に、おおまかな感想を述べておくけれど、このデモはずいぶん「だらしない」。でも悪い意味じゃないと書いておく。

 この日の国会前デモは夜6時半という開始予告だったのだけれど(筆者が到着した夕方6時半以前からも何かやっていた様子)、終わったのは何と夜11時である。スピーカーの使用ができなくなった8時半頃以降、2時間以上もまだ続き、合計4時間半もやっていた。一般に言う集会の常識ではちょっと考えられない。

 また、警官たちが警備機動車を並べて道路に溢れさせないようにしたため、議事堂前北庭と南庭の歩道に長々と広がってデモの参加者は集まっていた。下の図の赤い部分がSEALDsで、青い部分が他団体だが、青部分も夜8時以降はSEALDsの領域になっていた様子。

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 図のように広い範囲にグラデーション状に参加者が散らばったため、中央演壇や発言者の姿は全く見えない。あちこちに置かれたスピーカーを通じて聞こえる声を聞くことで参加者たちは集いに参加していた。

 そして、暑いし長い時間にわたる集まりなので、人々はどんどん帰っていき、また後から後からどんどん参加者がやってくる。どうもそういうスタイルらしい。刻々と人が入れ替わっていくので、時間帯によって随分人も雰囲気も変わっていった。夜10時を過ぎても参加者はメトロ丸ノ内線国会議事堂前駅やメトロ有楽町線国会図書館前駅の二方向からやってきていた。

 なので、全体像が非常につかみにくい、まあいわば「だらしない」デモだ。見る人によって印象が変わるのは、時間や場所によって見るものがまるで変わるからというのも大きいのではないかと思う。


 大きく言えば、夕方から前半は、組織動員というか、団体員として来たな、という人達の割と多い時間帯だった。年配の人達や集会でお馴染みののぼりや旗を持った人たちが目立つ。団体の宣伝ビラなども一部で配られ、ああ、集会だなという感じである。それでも若い人たちや一般にふらっとやってきたなという人も多く、制服姿の高校生たちの姿や子連れの主婦も見かける雰囲気ではあったけれど。

 上の記事を書くような人は、この前半やそれ以前の時間帯を見た人だろう。実際、この記事を書いた石井さんは夜の部を見ていない。

 17日、SEALDsが仕切ったのは主に夜7時40分以降である。組織動員で来たなと思われる人たちはどんどん帰っていってしまい、入れ替わりにどどっと学生らしき人達が増えてきた。民主党の枝野幹事長をはじめ各野党、それから弁護士会からの発言(前半の部も人を替えて各野党や団体から発言があり、二度目)があり、それが終わってスピーカーの使用がストップした夜9時頃以降は、トラメガと太鼓を使ったラップ調のコールが続く。ドコドコと薄暗い国会周辺に太鼓とコールの声が鳴り響き、なんだかほとんど学祭の夜とかキャンプファイヤーのノリである。(それでも学者の会の渡辺治さんがトラメガで声を張り上げて演説してたけれど)

 そう、動画のように、学祭の夜である。(夜9時半ごろ)トラメガでのコールなので声が割れがち。

  
 「お洒落」だとされるSEALDsだけれど、実際にはそこまで、例えばクラブにでも遊びにいくようなファッションの人達ばかりというわけでもない。要は学祭をそのまま移してきたような雰囲気で、そこらの学生さんっぽい人たちが中心である。ラップ調のコールも、上手い人ばかりではなく、どうにも下手や失敗もご愛嬌ってなコールもある。「お洒落な人達」に囲まれているというよりは、懐かしく学生時代を思い出すような、そんな空気でもあり。

 ちなみに、「戦争したくなくてふるえる」や「なまらむかつく」はSEALDsのものではなく、もともとは最近、北海道での反対デモで話題となった高塚愛鳥さんのフレーズだけれど、この夜、その当の高塚さんがゲストにやってきて、「ふるえるコールしていいですか?」と、ふるえるコールがこの場の公認になった。


 とまあ、そんな感じのSEALDsデモである。「だらしない」と最初に書いたが、この参加のしやすさと離脱のしやすさは好ましく面白い。署名もなければ秩序だった隊列もない。それぞれの都合に合わせてふらっとやってきて、コールにノればそれで参加である。満足すれば「じゃあね」と帰っていく。実際夜9時半過ぎ以降はほぼラップ調コールの連続で、ひたすらまあ踊っているというかノっているかの、原始の祭りを思わせるようなミニマルレイブな時間帯である。年寄りには正直つらい。

 ちなみに、主催者発表の参加者数は、「のべ」である。この日、前半で2万人、全体で5万人とのことだった。後から聞いた警察発表は5千人で、この大きな差は、のべ人数と場所の収容数との差だろうと思われる。ずるずると長時間にわたって入れ替わり立ち替わりする参加者数の全体を正確に把握するのは難しいが、歩き回ってみた体感的にも全体のべ動員数は警察発表ほど少なくはない印象だ。

 後半は通路も崩れて中央演壇まで辿りつくこともできず、それを越えて反対側がどうなっているのかもうわからなくなり、全体像の把握も難しくなった(動画は、帰る人達と入れ替わりにじりじりと中央に迫っていってやっと撮ったものだ)。その上、警備機動車でデモから封鎖したために空いた車道を、タクシーで中央演壇まで乗り付けるという作戦が展開されていて、もう何が何だかである。

 一方、警備の警察官たちは敬語で懇切丁寧に誘導しており、割と親和的である。全体にピリピリとした警戒感はデモ参加者の側にもなかった。だけれど、それでも夜11時までずるずる続いているのは気になるというか、危なっかしい気がしないでもない。半世紀前の安保闘争の時は夜通し人が集まったというから、この場所はそんなものなのかもしれないが、上の動画はすでに9時半を回った頃の状態だ。一般的なデモ集会としてはなかなか常識破りである。

 デモ全体に末端まで制御しきれていないのは明らかな様子なので、警備側の判断の変更や何かの波乱一つで大きく混乱しそうな印象を持った。現に今回、歩道に押し込まれて参加者たちは右往左往している。こういうところもSEALDsが組織的統制を受けていないと思うところのうちの一つだが、「だらしない」デモのこれも一面でもある。

 もっとも、SEALDs側は騒乱に対してかなり警戒しているらしく、さかんにTwitter上で注意を呼び掛けている。大きな混乱がないよう、祈るばかりだ。

 そうして、夜10時過ぎに、筆者は体力が尽きてデモから離れた。汗だくである。延々続くミニマルレイブにある程度年を取った私は長くは耐えられない。なるほど人が入れ替わっていくのはそういうことかと思うわけだけれど、若い人たちはますます熱量を高めていく。溢れんばかりの情熱と体力が羨ましい限りだ。11時にきっちり終わるとアナウンスされていたので、それで終わったと思うけれど、ひょっとして終わりがどうなったのかはわからない。

 最後に、まとめての感想だけれど、現場に立ち会ってみて改めて確認した、SEALDsのデモは政治的に尖鋭化したものではまるでない。また尖鋭化を感じさせない。ただ熱量がそこにある。政権党の決定に反することがすでに「尖鋭化」だと言うような向きなら話は別だが、繰り返すけれど学祭をそのまま移し換えて持ってきたような感じだ。というかデモというよりこれミニマルレイブだろという。そこに多くの人達が清冽さを感じているわけだけれど、逆に言えばそこまで日本の政治文化は干乾びてしまっていたのかという感慨を抱かずにはいられなかった。

 当たり前に、ごく当たり前のように学生たちが集まっているように見える。それがSEALDsなわけだけれど、そこに特段に力を込めて願いをかけたり、また躍起になって叩いたりデマまで吹聴して扱きおろしたりしたりしなければならない状況こそ、情けないことになっているなあと改めて思う。

 彼らSEALDsは叫ぶ、「民主主義って何だ?」。その矛先は、実は安倍首相ではなく私たちにも向けられている。答えなければならないのは、私たちだ。彼らは「民主主義はこれだ」と答える。「これだ」と言うには私は年を取っていて、ただ見学者としてブログを書いているのだけれど。さて、私たちは何と答えればいいのだろう?

安保法案は時間がたっても忘れられない

 最初に断わっておくけれど、「時間がたてば忘れる」や、または「どうせ理解はされない」も安倍首相の発言ではない。NNNの報道で安倍首相の画像にこのキャプションが被さったことから勘違いが広がったようで、正確には「首相周辺」ないし「首相に近い参院議員」の発言である。特定はされていない。

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 それでも、この発言には呆れるを通り越して衝撃さえ覚える。

 国民を舐めている、とか反対派を馬鹿にしているとかいう話ではない。法制推進側がまったく確固たる責任感を持っていないことが露呈してしまっているからだ。あまりの無責任さに目眩がしそうである。

 宿題を忘れたのに授業で当てられず、ホッとしている中学生じゃないんだから、その場さえ切り抜ければどうにかなるとかいう問題じゃないだろうに。

 集団的自衛権を導入し、共同的に武力行使に踏み切ることを可能とした以上、今後どこかでそれは実行されるかもしれない。というより、そうした「国際状況の変化における必要性」を見越して安倍政権はこれを推進してきたはずで、それが具現化する、ないし必要とされる状況が来ると想定されなければならない。

 その度、議論は再び巻き起こる。国際的紛争や武力的な共同介入が必要とされる場面がやってくるたび、何度でも集団的自衛権の意義は問い直されることになるだろう。より具体的に厳しい形で。


 かっての「安保反対闘争」の巨大な盛り上がりが彼らの頭の中にはあるのかもしれない。自民党の石破元幹事長や谷垣現幹事長もかってに比べて現在の反対運動のありようについて語っている。

 けれど、彼らは忘れてしまっているわけで、かっての安保反対運動は条約が自動承認され、岸内閣が倒壊してそれで終わったわけではないんである。やがてベトナム戦争をめぐってより厳しい形で返ってくることになったし、学園の破壊や極左テロというツケを払う破目にもなった。現在でも厳しさを増す沖縄の基地問題は全くその安保問題の延長線上にあるわけで、具体的な、より厳しい形でこれらは返ってくるのである。


 法制推進派がこうしたことを全く念頭に置かず、ただ紙に書いた念仏か何かだと捉えているとしか思えないような発言をするなど、悪夢としか言いようがない。

 もしくは、これによって全く危なげなく「アメリカに守ってもらえる」お守りが手に入るのだと、本気で考えているのかもしれない。目先の我が立場の安定にばかり汲々として、集団的自衛権を「行使」することの責任を誰も取る気がない。悪夢を通り越した何かシュール過ぎる光景ですらある。


 ネットでは強行採決時の反対派議員達のプラカードデモンストレーションをおちょくるコラ画像が出回っている。確かにあのパフォーマンスは間抜けに見えるが、だからといっておちょくって祭りにしているような局面なんだろうか。

 推進派がふざけて祭っている姿は逆に凄まじく滑稽に見える。やっていることの正当性に自信がないようにしか見えない。欲しいのは重みと責任のある説得であって、お笑いではないし、笑えるような、「時間がたてば忘れる」ような軽々しい法案でもないはずだ。

宮崎駿さんの会見とSEALDsとネット左翼

 安保法制をめぐる攻防が大詰めを迎える中、宮崎駿監督の会見談話が話題を呼んでいる。いや、話題を呼んでいるというよりも所謂「右側」や法制支持派から盛んに叩かれている。やれ「老害」だの「ボケた」だの、まあひどい有様なわけだけれど。

 軍事力で中国の膨張を止めることは不可能だと思います。もっと違う方法を考えるために、そのために私たちは平和憲法を作ったのだと思います。

 これに対して、「武器よさらばのお花畑」「GHQが押しつけた憲法に過ぎない」などというのが、主だった「批判」の声のようだ。しかしながら、会見の全文を読んでみると宮崎さんは批判者から思われていることとはやや違うことを述べているように見える。

 イラク戦争が起こった時、日本のテレビジョンで、あるイギリスの政治学者がインタビューに答えていました。

 その内容をかいつまんでお話しますと、"この戦争の結果、アメリカはアフガニスタンイラクから自分の牧場に帰ることになるでしょう。そして、世界は一段と混乱するでしょう"と言いました。

 今、安倍政権のやっていることは、そのことを考えてどういう方法を取るかだと思います。私は正反対の方が良いと思いますが、つまり軍事力で中国の膨張を止めようとするのは不可能だと思います。もっと違う方法を考えなければいけない、そのために私たちは平和憲法を作ったんだと思います。その考えは今も変わっていません。

(中略)

 平和憲法というのは、占領軍が押し付けたというよりも、1928年国際連盟のきっかけにもなった不戦条約の精神を引き継いでいるもので、決して歴史的に孤立しているものでも、占領軍に押し付けられただけのものでもないと思うんです。

 宮崎さんの言う「私たち」は要するに宮崎さん個人や日本人ではなく、「人類」とか「我々人間は」に相当するだろうか。アフガニスタンイラクの例では、軍事的介入は混乱を招いた。「成功」と見るのはアメリカ自身でも難しい。中国の膨張に対して、別の手段、別の(国際連盟の理念ともなったような)国際的な調停方法を(我々人類は)採るべきではないか、というのが宮崎さんの問いである。

 重ねて注意をしておくけれど、ここで宮崎さんが述べていることは、「軍備を放棄せよ」といったことではない。覇権国家に対して、イラクに対するような軍事介入はすべきではない。別の手段を採るべきだということに尽きる。擁護し過ぎなのかもしれないけれど、毎度のこと批判する者は「ボケ老人」だの叫ぶ前にまず全体を見るべきではなかろうか。抽象的に見えるフレーズの抜き出しに釣り上げられていても仕方がない。


 もう一つ、安保法制をめぐって最近話題になっていると言えば「SEALDs」(自由と民主主義のための学生緊急行動)だ。毎週金曜日にデモを繰り広げているが、その「垢抜けた」ファッションや「お洒落な」フライヤーや宣伝動画が話題になっている。

 こちらも盛んに叩かれている。いや、一部では「リア充」っぽさが羨ましがられたりしているようではあるけれど。

 共産党(民主青年同盟)の影響力が強いと批判者からあれこれ報告されているが、となると、これは要するに戦前の京都学連事件あたりから続く正統というか、まあ正真正銘な学生運動だということになるだろうか。但し、自治会が母体ではないようなので、職場を単位としない個人加盟制ユニオンの学生版のようだ。

 その上で、もともと政権側のブレーンだった学者や、民主から維新までの各党の議員が挨拶に立つなど、反政権的な広い大衆運動としての側面を間違いなく持っている。LINEやTwitterの使いこなしや巧みな宣伝動画など、ネットを使いこなすという意味では「ネット右翼」に対するこれぞ「ネット左翼」、ないしは彼らの自称に従えば「ネットリベラル」ということにもなるだろうか。

 最も注目すべきは彼らの「品の良さ」だろうと思う。勿論、現実政治である以上、裏側で何が囁かれているかはわからない。それでも、「お洒落さ」以上に、彼らのその品の良さが目を引く。

 口汚い罵倒や差別用語をモロに含むようなレイシズム、クズは死ねをそのまま叫ぶような自己責任論や嘲笑ばかりが渦巻いてきた最近のネット界隈の政治世界において、彼らの実直な口ぶりは非常な清冽さを感じさせる。それだけで期待を集めるのもよくわかる。英語のプラカードばかりというのがある種の功を奏しているのかもしれないが、「#本当に止める」というような飾りない口語のタグをはじめ、サイトも誠実に要求を並べるつくりになっており、罵倒的な姿勢や嘲笑は見えない。

 民主主義とは多数決による決着のことではなくて、また当然にいきなり相手を斬り倒すことではなく、互いに「敬意」をもって対し、論ずるということだろうと思う。その意味では彼らはとても誠実に見える。嘲笑によって政治を語る向きに、右にせよ左にせよ信頼に足る連中などいない。

 彼らがほんとうに、彼らが述べているように「新しい政治文化を創る」かどうかは今後次第だ。いまのところフライヤーにせよ動画にせよ写真の加工法にせよ、真似ごとの域を出ていない。ほんとうに新しい政治文化は、未来派やロシア・アヴァンギャルドやプロレタリア・アートのような新しい衝迫性ある文化を伴うものだろうという気がするのだけれど、まだそれは見えない。しかし、それらは薄汚い嘲笑や罵倒にまみれたこれまでのネット政治がまるで生み出さなかったものだ。SEALDsとて「#自民党、感じ悪いよね」のようないじめっ子のイヤミのようなものにばかり阿ってばかりいれば、いつでも落ちていく。


 安保法制をめぐって喧々と政治議論が飛び交うネット空間だけれど、敬意と文化ある空間へと前進することはあるんだろうか。