ヲタ論争論ブログ

ヲタ、ネット界隈をめぐる論争的ブログです

ライトノベルのタイトルが長いからといって別に気にしないのは間違っているだろうか?

 ヤスダスズヒトさんは偉大だなあ。

 『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』原作小説では、ヘスティアの容姿についてこの「紐」の描写は存在しない。ちなみに、背中のざっくり開いたミニスカートだという描写すらない。どういう経緯で生まれたものかは知らないけれど、素直に考えるならヤスダさんの考案によるものなわけで、さすが時代を築くイラストレーターは紐一本で革命を起こせるんだな、と妙に感心したりする。


 ところでその『ダンまち』について、こんな話題が。

 「ファミリア・ミィス」というタイトルは第一巻エピローグのタイトルともなっていて、「眷族の物語」という言葉に振られたルビになっている。元タイトルに差し戻されなければ『ファミリア・ミィス-眷族の物語-』といったタイトルとして出版されていただろうわけだけれど、この場合、どちらも作者の発案なのでまあどうでもいいか。

 しばしば、ライトノベルで一時期ブームとなった長いタイトルづけは駄作の象徴であったり編集サイドよる恣意的操作の産物として叩かれてきた。けれども、いまとなっては、むしろ長いタイトルの方が「当たり」が多い(多かった)ような気さえする。
 
 『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』あたりから始まったと言われる傾向だけれど、この『ダンまち』に並んで、今期は『やはり俺の青春ラブコメは間違っている。』二期がアニメ放映されており、夏には『下ネタという概念の存在しない退屈な世界』のアニメ化放映がある。『俺がお嬢様学校に「庶民サンプル」として拉致られた件』も年内予定だとか。

 小説側では、時雨沢恵一さんの『男子高校生で売れっ子ライトノベル作家をしているけれど、年下のクラスメイトで声優の女の子に首を絞められている。』というこれまた長大なタイトル作品も結構当たってる。他にも『クズがみるみるそれなりになる「カマタリさん式」モテ入門』は熱狂的なファンを持つ石川博品さんの作品であり、『誰もが恐れるあの委員長が、ぼくの専属メイドになるようです。』はおかゆまさきさん、『恋人にしようと生徒会長そっくりの女の子を錬成してみたら、オレが下僕になっていました 』は月見草平さん、とそれぞれ並べてみると案外注目作家が多いことに気づく。

 むしろ、進んでつっこんだほうが「当たる」確率がまだ高いような。というか、めぼしい長文タイトル作をこうやって挙げてみると、ヒット作や注目作の割合がかなり高いことに改めて驚いてしまう。

 長文タイトルが(一時期の)ブームだからといっても、全体の割合からすれば実際にはそれほど多くない、というのは、ライトノベルに良く親しんでいる人なら周知のことだと思う。にも関わらずこの割合は、そうやって編集サイドが力を入れた結果なのだろうか、それとも?

『プラスティック・メモリーズ』にみる「人格」問題

 空想科学ADVシリーズの脚本家、林直孝さん脚本による注目のアニメ『プラスティック・メモリーズ』の放送 が始まった。非常に面白かったと思うし、続きがとても楽しみなのだけれど、一部ではSF設定が「ガバガバ」だとする突っ込みがされているようで、このあたりをめぐっていろいろ考えてみる。

 SF設定に対する突っ込みの多くは、主に次の点あたりにあるようだ。「人格を持つロボットを作り出すことが可能なのに、なんでバックアップできないの?」


 さて、この問いを逆に考えてみる。バックアップやコピーが可能なら、そこでの「人格」は一体どういったものになるのだろうか ?

 古くて新しい問いだけれども、例えば自分そっくりにコピーされ、自分と同じ記憶や知識をもったアンドロイドは、果たして自分なのだろうか?それはあくまでコピーなのであって、「私」がアンドロイドに移しかえられたと言えるのだろうか?

 仮に自分の経験や記憶をデータとして外部に保存し、それを新しい体に移し替え、命永らえていったとして、 それは「自分」の連続なのだろうか?

 『攻殻機動隊』あたりが軽々と越えていった(ないしは不問にした)ところだけれども、SF的には、むしろこういう問いこそお馴染みのテーマなんである。


 現在、人工知能の研究はあちこちで進んでいて、Googleが買収したイギリスのベンチャー企業DeepMindが自律学習を可能とするエージェントプログラムを開発したというニュースは世界を驚かせた。またホーキング博士ビル・ゲイツ氏が人工知能は人類にとって脅威となると警告を発したのも記憶に新しい。

 しかしながら、それでも人類は「知能」の謎にたどり着いたわけではない。コンピュータの能力が上がれば、 データの容量が多ければ、判断の能力や精度が向上すれば、それで勝手に「人格」が生まれるわけではない。自律的な意志、「私は私である」という主体性、これが一体どこから生まれてくるのか、どこからやってくるのか?そ れはまだまだ全く謎のままだ。

 「私」とは何なのか?

 例えば川原礫さんの『ソードアート・オンライン』WEB版アリシゼーション編に、コピーされた「人格」が、 コピーであることに耐えられずに絶叫しながら自壊していく、という場面があるのだけれど、要するに一つきり、一回きりであることの上に「私」という人格は成り立っているのかもしれない。古今東西ドッペルゲンガーに出食わすのはいつでも根源的な恐怖であり自己の否定である。

 或いは有名なニーチェの「人間は死ぬべきときには死ぬべきだ」の言の通り、有限な、唯一回きりの生、その 上に「私」という人格は成り立っている。

 とするなら、バックアップ不可能であり、かつ9年余りという有限の生が設定されているからこそギフティア には人格がある、と言えるのかもしれない。だからこそ「私」としてアイラは存在することができる。

 逆に、仮にバックアップや無限延命を可能とする技術があるとするなら、それは人間に対しても適用可能なはずで、この場合、随分と人間の「人格」のありようは変貌していることだろう。


 とまあ、つらつらと考えを流してきたわけだけれど、『プラスティック・メモリーズ』はラブストーリーらしい。少女の余命に意志的な生の圧縮された輝きを描く「サナトリウム小説」の類型に当てはまる物語のように見えるけれど、さてさて。

 恋愛である以上、「私」的な人格の問題であり、とするならそれは唯一で一回きりのものである。とするすると答えが出てくる優等生的な設定なわけで、まるで揺らぎがない。その揺らぎなさがSF嗜好的には物足りなく「ガバガバ」にも見えるのかもしれないけれど。

 物語の行方が楽しみだ。

『風立ちぬ』のあとに

 TV初放映によって、改めて話題となった映画『風立ちぬ』について。

 

 『風立ちぬ』はひどい映画だ。といっても、駄作だとか出来が酷いといった意味では決してない。

 美しい飛行機への夢は無残に潰え、文字通り命を燃やして愛し合った伴侶も永遠に袂を離れた。なのに、その上で「生きねば」ならぬ、と言われたところで、もうどうしょうもないんである。引退し去っていくものは涙すればそれでいいかもしれないが、残される方はそうはいかない。

 『もののけ姫』の「生きろ」は、わかりやすかった。民と山を繋いで生きるアシタカとサンの未来を具体的に思い描くことができる。翻って『風立ちぬ』のあとに、何が想像できるかといえば、淡々とただ老いていく堀越老人の姿だけだ。時折彼は計算尺を握り、実現するはずもない飛行機を設計したりするのだろうか。

 この映画は何かに似ている。

 と思い返してみるに、それは新海誠監督の『秒速5センチメール』だ。次の恋への予兆も、幸せな社会生活への繋がりも、全てを振り切ってロケットは虚空の彼方へと飛び去っていってしまう。残された地上に響いているのは山崎まさよしの歌だ。静かな絶唱に落ちていくこの物語は、三部構成の物語としては明らかに破綻している。だけれども、だからこそ印象深く美しい。
 
 堀越二郎も遠野貴樹も、「他の人にはわから」れずに「いつでも探し」ながら、「その後」を生きていかねばならない。「ありがとう、ありがとう」と、菜穂子や明里に感謝を述べながら、「その後」はスクリーンの向こうである。


 どうやって私たちは、「夢のあと」を生きていけばいいのか? 

 遠野貴樹は、新海監督になったのかもしれない。堀越二郎は、宮崎監督にバトンを渡されたように、庵野監督であるのかもしれない。

 そして、こうして振り返ってみると、改めて言いたくなることがある。ひょっとして「しかし、誰もこうして提示された問いの答えに、辿りついていないのではないか?」

 庵野監督の新生『エヴァンゲリオン』はどうも迷走気味に見える。さまざまな呪縛を前に四苦八苦しているように見える。「キモち悪い」の一言で打ち切った「夢のあと」をどう生きていけばいいのか、宮崎監督からのバトンは全く投げられたままで回答にはまだまだ年月が必要な様子。

 新海監督の以降の作、『星を追う子ども』『言の葉の庭』はどちらも通俗に落ち過ぎて「手堅い」印象が強く残る。足フェチだけで後の長い時間を生きていくのは難しい。いや、おちゃらけずに真面目に書こう、『言の葉の庭』は素晴らしい作品なんだけれど、職人として生きる、が「夢のあと」を生きる処方なんだろうか?ほんとうに?

 
 どうやって私たちは、「夢のあと」を生きていけばいいのか?

 考えてみれば、「セカイ系」なるタームが成立して以降、ずっと私たちは探してきた気がしないでもない。それは端的にオタブームをどう軟着陸させることができるか、という問いに引き換えても良い。

 『風立ちぬ』が恐ろしく、そしてひどいのは、この作品が破綻していない、まったく完成品だということだ。それが意味していることは何だろう?

 

 今週のお題「ふつうに良かった映画」

アニメオタクとは何者か?

 これを書いた彼(?)はきっと若いんだろう。

 宮崎アニメのヒロイン、例えば『カリオストロの城』のクラリスがどれぐらい当時のオタク達にとって「ヒロイン・オブ・ザ・ヒロイン」だったかを知らないのだろうし、これをエロ同人化した牧村みきがどれほど叩かれたのかをきっと知らない。

 確か、ふくやまけいこさんだったと思うが、映画を観終わったあと一日中「カリ城ごっこ」(土手をルパンのように走りきる)をしたと、今はなき『ぱふ』紙上で嬉しそうに述べていたけれど、当時のオタク達がどれほどカリ城ごっこをして遊んだかを知らない。或いは、両手を繋がれたルパンと次元の逃走劇のフルアニメーションに、どれだけオタク達が夢中になったかを、きっと知らない。

 大友克洋については、みんな『AKIRA』より前から「童夢ごっこ」をしていた。後代のさまざまな作品に影響も与えた、老人が壁にめり込む例のシーンごっこである。続く『AKIRA』を支えていたのも当然オタクであって、特にその背景の緻密さは絶大な影響をオタク界隈にもたらしたものだ。
 
 押井守の『うる星やつら』テレビシリーズにおける逸脱やパロディ、または『ビューティフルドリーマー』に喝采を送ったのもオタク達であって、そもそもテレビシリーズの「みじめ愛とさすらいの母」(101話)あたりはどう考えてもオタクでないと理解できないし楽しめない。


 「ある朝、街が廃墟になっていたら楽しいな」、「文化祭の前日が永遠に繰り返せばいいのに」といった押井守の世界や、またはパロディや引用、『幻魔大戦』あたりから始まって、間に『超人ロック』や『僕の地球を守って』あたりを挟み、『AKIRA』へと爆発していく、超越的な力や終末論への嗜好など、どう考えても当代の感覚からすればこれらはオタ的想像力そのものではないかと自分は思うのだが。

 そもそも日本の「オタク」は降って湧いたものでもなんでもなく、例えばコスプレなどはアメリカのSFファンジンで行われていたものを輸入してきたものだ。上述のエントリで「オタ」代表とされるガイナックス庵野秀明だけれど、彼らももともとは日本SF大会のオープニング(DAICONFILM=日本SF大会大阪オープニングフィルム) を制作していた制作集団が母体である。「オタク」の底流には根強いSF嗜好があり、これにファンタジーやら特撮やらミリタリやが合流していまの「オタク」世界は成立している。


 しかし、どうも若い人達、またはこのところオタクを評する人達にとって「オタ的想像力」とはそれと全く異なるようだ。直接には、それは「萌えオタ」を指す。『IS』のシャルロットにブヒブヒ叫ぶ「萌え豚」が現れてから既に4年が過ぎているが、要するにそういうイメージだろうか。

 「オタ的想像力」において、美少女とは、「宇宙人な」美少女であったり「未来人な」美少女であったり、「超能力者な」美少女だったりと、要するに力点というか特質は「」づけのほうにあるのだというのが、ある程度の年代までの常識だったように思う。しかし、それらの感性は退化しひからびてしまい、ただ直載に美少女に萌えるだけの「豚」がいまや多数派になってしまったということなのだろうか?


 いや、ほんとうにそうなのかは再度考えてみるべきだ。

 前回のエントリではライトノベルについて述べたが、例えば、累計1千万部を超える大ヒット作と言われるライトノベルを並べると(オーフェン銀英伝といった古い作品を除く)、『とある禁書の黙示録』、『涼宮ハルヒの憂鬱(シリーズ)』、『フルメタル・パニック』、『ソード・アート・オンライン』の4つとなり、以下1千万部以下に『灼眼のシャナ』『キノの旅』などが続く。

 これらの作品を特徴づけるのは、実のところ第一に「バトルもの」または「SFジャンルもの」だろう。勿論、「萌え」るヒロイン達も満載だが。

 にも関わらずライトノベルに関する議論においては、しばしば何故か「萌え」が第一となり、その質が良しか悪しかは別として、「バトル」や「SF」への志向に関して言及されることがあまりない。

 恐らく、アニメのヒット作を並べてみた場合にも同じことが起こる。要するに、何故か論者たちは「萌え」について語りたがり、その他の要素についてはそれが「オタク」の特質や想像力であることが認められない。

 仮に既存SFの借り物であったり、または中途半端な知識の産物であったとしても、または中二やベタ過ぎるメタだったりするとしても、SFやファンタジーへの志向は列記としたオタクの特質として現前するわけだが、これらが全て「萌え」に収斂して語られてしまうのは何故なのだろうか?

ライトノベルが馬鹿にされる状況論

 この頃俄かに、ライトノベルをめぐる議論が賑やかになってきた。何故、ライトノベルは馬鹿にされるのか?

 或いは、「何故いま、それが考察されなければならないのだろう?」

 あれこれと解釈や考察やがなされているけれど、実のところ答えは簡潔かつ明瞭で、「今期(2015年冬)のラノベ原作アニメが不作揃いだったから」に尽きるのではないかと思う。

 実際に不作かどうかは個々人の感想に委ねられると思うのだけれど、テイストの似た四つのラノベ原作アニメが「クソアニメ四天王」「四大クソアニメ」などと並び称され、あちこちのブログやまとめサイトで面白おかしく取り上げられている。

 このあたりから最近のラノベ議論は起こっている、もしくは再び火がついているように見える。

 要するに「ラノベ叩き」はアニメにおける各ジャンルの力学の問題なんである。実際、この話題はアニメのクールが入れ替わるたびに形を変えて現れる。「良作」が揃えば話題は後退し、「不作」が揃えば叩きが前に出てラノベは馬鹿にされる。

 「ライトノベル」は時として「エロゲ」に入れ替えられたり、最近なら「ソシャゲ」に置き換えられたりもする。「萌えアニメ」といった大雑把な言い方に換言されるときもある。

 端的に言えばこれはアニメのあり方に対する語りなのであって、ライトノベル自体については何も語っていないに等しい。


 一方で奇妙な、もしくは当たり前のことかもしれないけれど、文芸分野においてはライトノベルは冷静に見るならば「かなり一目置かれている」。書評ブログが躍起になってライトノベルを貶しているのを見ることなんて滅多にない。

 このところ頭打ちや「アタリショック」が懸念されるものの、長く書評、文芸系ブログで支配的なのは出版不況下でも揺るがないラノベ市場の強力さに対する感嘆だ。また、それは今も新レーベルラッシュや、一般文芸のマンガイラスト表紙化に対する注目として続いている。

 ちなみに、ここでもこれらは文芸分野全体に対する語りであって、ライトノベル自体については何も語っていないに等しい。


 結局のところある分野における伸長によって良し悪しだの馬鹿だの感嘆だの言われているという話で、その時点において「アニメにおいてはラノベは馬鹿」であるか「文芸においてはラノベは驚異」であるかという話。

 状況が変われば言い方は変わるわけで、またさらに別の分野では別の言い方があるかもしれない。例えばゲームにおいては(ラノベ原作のキャラゲームは)別の言い方が用意されるのだろう。


 ぶっちゃけ、涼宮ハルヒレベルの大ヒットアニメが出れば、一挙に状況はひっくり返る。さしたる心配はない。いずれは「エロゲ」あたりの位置に落ち着くのかもしれないが、それまでにはまだまだ時間がかかる。