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ヲタ論争論ブログ

ヲタ、ネット界隈をめぐる論争的ブログです

ヒトラー、というとしゃしゃり出てくる人達

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 ヒトラーナチスといえばファシズムや侵略者の代名詞であって、政治の世界では相手を独裁的だとか侵略的だと罵倒する際によく用いられる「頻出語」である。ちょっと前なら橋下大阪市長に対する批判として用いられ、つい最近なら麻生副総理が手口を見習うべきと発言して物議を醸し、そして今回は安倍政権による安保法案の強行採決をめぐる罵倒として飛び出した。

 それは日本に限らず諸外国でも「良くある光景」なんだけれど、私がどうも前から気になっているのは、こういうケースがある度に、言い方は悪いんだけれど「横からしゃしゃり出てきてヒトラーについて解説したがる人達」のこと。ちなみに、togetterにまとめられた中心的な論者のことを直接に指すものではないことをあらかじめ述べておく。


 彼らはしばしば、客観的に詳しく解説をするつもりながら、ヒトラーといま当事となっているその出来事がいかに「違っている」かを滔々と説明することに心血を注ぎがちだ。私もアドルノや20ー30年代アヴァンギャルド芸術を研究テーマとしてきた人間だから、ヒトラー政権の成立や経緯にはそれなりに詳しいつもりなんだけれど、彼らに同調して議論に加わることにはどうにも躊躇を覚える。

 彼らの無邪気な解説は、だいだい「とても違うので」(まるでヒトラーだとして)批判される側に罪はない、という結論にそのまま落ちてしまいやすい。解説それ自体は構わないのだけれど、だが問題は、問題そのものがまるで「ない」もののように往々にしてなってしまうことだ。

 今回の場合は、民主党が唱えるそもそもの「非民主的だ」という批判はどこへいった?という話である。弁解ないし反論するなら、対応する自民党の手続き上の正当性を訴えるべきであって、ヒトラーがどうだったと判断することで何かが決することではない。過去と現在の無邪気な反転や混同がここではしばしば引き起こされる。

 或いは、「(ワイマールの)民主体制はヒトラーの登場を防ぐことができなかった」というおおもとの命題はどこへいったのだろう?個々の選挙結果をこれは指しているのではない。大きな歴史的反省としてワイマール共和国の脆弱さを警告として読み取るものだが、これはどこへいった?


 一方で例えば民主党有田芳生議員はよく批判者から「有田ヨシフ」つまりスターリンだと譬えられる。まあ名前がそうなんだけれど、この時、実際にスターリンがどうだったか、またはその違いなどを長々しく解説する向きが現れる場面など見たことがない。

 毛沢東にせよポルポトにせよ、あるいはカダフィにせよ、悪名高い独裁者たちは他にもあり、これに譬えられる政治家達もいるわけだけれど、この場合も同様だ。何故スターリンにせよ毛沢東にせよ、その場に長々しく解説する者や議論したりする者たちが現れないかといえば、彼ら独裁者たちの悪名は現在の日本において確定的で揺らぎがあまりないからだろう。

 だが、現在の日本において、ヒトラーナチスに関しては何故かわんさかと解説者達が現れる。ヒトラーナチスは、何故かそういう磁力を強力に孕んだ領域なんである。


 当の本国ドイツでの最近の例としては、ギリシャ危機をめぐっての出来事が記憶に新しい。ナチス時代の軍服を着たドイツのショイブレ財務相が、「君たちの灰を肥料にすることを検討している」と、ホロコーストを思わせるような台詞をしゃべっているという風刺画をギリシャの地元紙が掲載したという出来事だ。対するドイツ政府の反論は、「言論の自由は支持するが、風刺画は侮辱的で、作者は恥を知るべきだ」と端的なものだった。ヒトラーなどとんでもない、侮辱だ、の一刀両断である。

 本国ドイツで、こうした事件が起こるたび、わざわざ横からナチスについて解説を加えるのは主に「リビジョニスト」達の仕事である、ということは頭の隅に置いておいていいかもしれない。

 ぶっちゃけて言うなら、わんさかヒトラーの解説者が現れるのは、それに対する価値判断がこの日本では揺らいでいるという状況を反映しているのではないかとうっすら疑っている。その無邪気さは、

無邪気なホロコースト・リビジョニスト

 の記事などをどうしても彷彿とさせる。

 とはいえ、再び述べておくけれど、togetterの中心的な論者たちはかなり良識的、意識的で注意深い。歴史における価値判断と、現在との区別に関してもかなり慎重な姿勢であるように思う。それでも、大挙して押し寄せる「揺らいだ」人達に対して非常に苦労している姿が見て取れる。

 歴史に関して、議論することはとても大切なことで、そこには大きな価値がある。しかし、政治的事件のたびにそれについて述べようとすることは、現在の政治的な姿勢をそのまま願望として過去に照射することに繋がりやすい。それを「リヴィジョニズム」とひとことで言うわけだけれど、危なっかしいとハラハラしながら推移を見ている。