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ヲタ論争論ブログ

ヲタ、ネット界隈をめぐる論争的ブログです

私にとってオタク体験は幸せなものだった

 「オタクの不遇時代」について、盛り上がっている。毎度毎度のことオタクは不遇なものとして語られるが、さてさて、たまにはオタクの幸せについて、または幸せだった時代について語ってみるのはどうだろう。個々人の私的な体験は年代論などに合致するものではないが、筆者はあえてこう書いてみる。「私たちの世代のオタクは幸せだった」。

1.

 確か岡田斗司夫さんだったと思うが、彼が区分したオタクの幾つかの世代のうち、筆者は第二世代にあたる。上に引用する漫画を描いたエリコさんよりひと周りほど先行する世代であり、はじめて「おたく」という呼称を与えられた世代でもある。中森明雄さんが「おたく」なる用語を生みだしたのは『風の谷のナウシカ』劇場公開のその前の年のことだ。このとき、筆者は思春期真っ盛りの丸刈り(当時の多くの地域での校則である)の中学生だった。

 小学校時代にガンプラブームの洗礼を受け、『幻魔大戦』や『ガンダム』の映画を観にいき、すがやみつるさんの『こんにちはマイコン』をマイコンを持ってもいないのに熱心に読み込み、ファミコンの登場やゲーセンの『ゼビウス』などに心躍らせていた私たちにとって、アニメや漫画、ゲームは既に身近なものだ。そこへやってきたのが宮崎監督の『風の谷のナウシカ』だった。

 『風の谷のナウシカ』は文部省推薦か何かの映画であり、意外に思われるかもしれないが「良識ある人々によるお墨付き」な映画として全国の学校で上映されたりした。そこで魅了され、「オタク」なるものへの目覚めの嚆矢となったと語る人達も数多い。筆者も中学校の体育館で体育座りをしながら鑑賞し、オームの巨大さに戦慄したり、同級生達とナウシカはノーパンかどうかを熱く議論したクチだ。

 素晴らしい久石譲さんのサウンドに惹かれ、当時急速に普及しつつあったレンタル屋でサントラを借り出し、「メタルテープ」に録音して擦り切れるほど聴いていた覚えがある。いずれにしても宮崎映画の名作化は最初、半ば官製だったことはもう少し強調しておいていいかもしれない。

 テレビでは『うる星やつら』で押井監督の暴走が始まり、『マクロス』などがヒットしていた。晴海で開かれていたコミケは既に20万人という動員数に達しつつあり、主要な都市圏にはアニメイトが出来ており、書店の店頭には『アニメージュ』ほか複数のアニメ雑誌が並んでいた。こうした中で抵抗なくどっぷりとアニメや漫画に私たちは浸っていった。

 当時の世相としては、尾崎豊さんの『卒業』がリリースされたのがナウシカ上映の翌年のことあり、要するに世の学校は「荒れ」と「管理教育」の混淆する時代だった。次の年には「葬式ごっこ」で知られる悲劇的な中野富士見中学いじめ自殺事件が起こり、「非行」から「いじめ」へと学校問題の焦点は移っていく。ちなみに、やがて『夕焼けニャンニャン』の放映が始まり、「おにゃん子クラブ」あたりが青少年世代を代表するカルチャーとなっていく。一方で雑誌『宝島』や『バンドやろうぜ』の名前も懐かしい、バンドブームも起こる。

 そうした時代にあって、しかし、「オタク」だからといって蔑まれたり嘲笑された記憶はまるでない。環境に恵まれたのも大きいだろうが、まだ宮崎勤事件を知らない私たちにとって、「オタク」は今でいう「情強(笑)」程度のニュアンスでしかなかった。今の時代でもそうだけれど、中高生がアニメ、マンガやゲームに親しむのはごく当たり前のことでもある。そのうち、やたら詳しいやつら、といったものでしかなかった。親や教師たち、或いは行政の心配は非行やいじめのほうにあり、アニメや漫画で騒いでいる連中、ナウシカの上映会で大人しく鑑賞する連中など、平和な優等生だったからである。

 いまや伝説のロリコン雑誌となった『レモンピープル』も中学校の同級生から密やかに回覧されて筆者の手元にもやってきたが、背徳感に目眩がするほどドキドキしつつも「ロリコン」だと特別異常に思った記憶もない。なにせ自分が中学生なんである、山道で拾うガビガビになったエロ本のおばさんのエロとは違う、同級生のエロなんであった。

 ちなみに、「三次元の女の子は怖い」という考えもあまりなかった。むしろ「オタク・カルチャー」は多くの人々と知り合うきっかけを与えてくれるものだった。戦前の学生達は禁書である『資本論』などをちらつかせ、仲間を探したというが、それに似て筆者たちは雑誌『ファンロード』や『OUT』を片手に仲間を増やしていった。「ローディスト」ないし「アウシタン」であれば、誰とでも意気投合できたのである。

 こうして高校の頃には同級生や知り合いをつたって他校の生徒達とも交流を持つようになった。アニメーション研究会に所属していた女生徒に激烈に恋をして、その縁で同人誌即売会の売り子に駆り出されたりもした。先輩達の発行する同人誌にゲスト執筆するようになったり、『ファンロード』にイラストを投稿して何度か掲載されたこともある。

 こうして、筆者は気がつけば高校生にして同人誌に原稿を描いたり、即売会で売り子をするような「エリートオタク」になっていた。それは振り返れば大人達にも見守られ、多くの作品や人々との出会いに恵まれた、砂糖菓子のように甘く優しい、そして良質な体験だったと思うことができる。後代の「オタク」たちが苦心惨憺し、いまなお自意識に深刻な影を落としているとするに比べるなら、なんと幸せな体験だったことだろう。

2. 

 何が後代と違うのか。ということをしばしば筆者は考える。宮崎事件やメディアによるバッシングを置いて、一つ理由を挙げてみるとするなら、当時のオタカルチャーはその「狭さ」や「未成熟さ」もあって、外部に大きく開かれていたということだろうか。

 当時のイラストや1、2ページの短編マンガは一つの作品としての強度をもっておらず、しばしば多くが好きなものや元ネタについてのコメントを伴っていた。要するに一つの作品ではなく、趣味の「語り合い」の一つの手段としてそれらはあった。読者の投稿によって成り立つ『ファンロード』などが代表的だろうが、素人に限らずプロ作家達も延々とコメントを垂れ流していた。たとえば士郎正宗さんの『攻殻機動隊』原作漫画の欄外をびっしり埋め尽くすコメントに驚く人がたまにいるが、当時のオタク達は熱い視線でもってそうしたコメントを一字一句漏らさず拾い上げていた。

 こうした語りや、作家達が時折なすパロディを通じて、「オタク」達は外部や「ルーツ」を参照していった。なんせ未熟なオタク界隈である、境界線などやすやすと越えて、当時のオタク達は貪欲にいろいろなものに飛びつき、食いついていった。幾つか思いつくままに以下、列挙してみる。

 SF小説なら、第一世代のオタク達がそうであったように、その薫陶を受けた第二世代な筆者たちも早川文庫でハインライン、クラーク、ブラッドベリなど皆読んでいた。国内作家なら小松左京星新一筒井康隆さんらは鉄板であり、まだSFファンジンの影響の強かった当時のオタク界隈ではSF大会の動向などもよく喧伝されていた。筆者も「火星年代記」などをページが擦り切れるほど読みこんだクチだが、大原まり子さんや岬兄悟さん火浦功さんほか、新しいスターとして登場した新井素子さんなどもよく読まれていた。新井さんは当時のコバルト文庫でも執筆していた、オタク達の同世代のスターでもあった。

 ゆうきまさみさんやとりみきさん、出淵裕さんたちのグループは大林監督の映画『時をかける少女』の原田智世さんに心酔し、盛んに彼女をプッシュしていた。マイケル・ジャクソンの「スリラー」をオタク界隈に持ち込んだのもこの人たちだったように覚えているが、とにかく原作者である筒井康隆さんや眉村卓さんへの参照もあって、大林監督の尾道三部作は界隈でも有名作であり、必見の映画でもあった。特撮の粋をつくした『日本沈没』などもよく参照される作品だったが、同時に当時のハリウッド映画のヒット作『インディ・ジョーンズ』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『ネバーエンディング・ストーリー』などもよく参照された作品たちだった。概して当時のオタク達はSFやファンタジーであれば何にでもよく食いついていた記憶がある。

 音楽では、雑誌『ファンロード』上で湖東えむさんが「たのきんトリオ」で最も脚光の当たらない野村義男さんを推していたほか、本田恭章さんや中川祥子さんの父親である中川勝彦さんをプッシュしていた。当時MTVに習って日本国内のアーティスト達も盛んにビデオクリップを流し始めていたが、デビューしたばかりの爆風スランプ米米クラブなども良く参照されたアーティストだった。ちなみに、雑誌『ファンロード』は何故か編集長Kさんの趣味で毎年連載陣やゲストたちとともに台湾に出かけており、おいしそうな排骨飯の写真が掲載されていた。筆者は台湾料理がおいしいものであることをこの雑誌ではじめて知る。

 ほか、何といっても当時のイラスト描き、漫画家にとってのスターだったのは谷山浩子さんだ。彼女のファンタジー性や物語性溢れる楽曲は多くの作家達のイマジネーションを大いに刺激したらしく、楠桂(大橋真弓)さん、水谷なおきさんほか、多くの作家達が彼女を援用した。

 これらは、あくまで幾つかの例であって、他の場所では他のものが参照されたり援用されていた。挙げていけばきりがない。

 今でも『けいおん!』からバンドを始めたり、ボーカロイドDTMに目覚めたり、『アイマス』からアイドルオタへと転身したりする例はいくらでもあるかもしれない。が、ニュアンスが違うのは、当時のオタクカルチャーは要するに穴だらけだったということだ。パロディや援用がなければ、成り立たないものが多くもあったのである。一般漫画やアニメに対して、パロディや作品として成り立ち難いもの、といったニュアンスが当時の「オタカルチャー」には歴然たる意味合いとしてあった。飽き足らないから外部やルーツをたどるわけで、また外部やルーツをオタカルチャー的に「描き直す」時期でもあった。

3.
 そして、筆者は後にやってくる悲劇、「宮崎勤事件」がオタク界隈にもたらした衝撃や影響について知らない。その抑圧や暗さをリアルには知らない。何故なら、その頃筆者は「ステップアップ」(あくまでカッコつきの言い方だ)していたからである。

 イラスト描きから絵を描くことに目覚めた筆者は芸術系の大学へと進学した。そこで現代美術に出会った筆者は、オタクカルチャーの二次元性より、アヴァンギャルドの力動性や衝迫性に目を奪われていくことになる。前衛演劇の舞台美術作りや自主映画に没頭したり、はたまた大学生らしく飲み歩いたりクラブハウスで遊び歩いているうちに、いつのまにか「宮崎勤騒動」は筆者にとって遠い世界の出来事になっていた。

 絵に関するあれこれの道を辿るうち、「ステップアップ」していったということになるのだろうが、やがて大学院に進む頃には、アヴァンギャルドの理論からフランクフルト学派に傾倒して、アドルノの『美の理論』を紐解き、お勧めの書物は『夜と霧』です、というような別の意味でこそばゆい青年になっていた。ある種絵に描いたようなルートである。

 こうして振り返ってみると当時のオタカルチャーは外部に大きく開かれていたぶん、当時の青少年にとって通過するべき「ジュブナイル」的な側面を多く持っていたのかもしれない。当時のオタクカルチャーの「文法」に従って筆者たちはさまざまな文化的教養の取っ掛かりを与えられ、それをもとに貪欲にルーツや外部を探し、そしてやがてその糸を辿って「卒業」していった。開かれ穴だらけだったぶん、「卒業」もしやすかったと言える。

4.
 ちなみに、筆者が横井軍曹よろしくオタカルチャー界隈に「恥ずかしながら帰って参りました」のは、就職して生活もルーチンなものとして落ち着いた頃に、IT革命とやらに出くわしたからである。2ちゃんねるの創生に出会ったりWEBづくりやFLASHやらニコ動やらで遊んでいるうちに、やがて秋葉原日本橋が電気の街からオタの街へと変貌するに合わせてどっぷりオタカルチャー界隈へと舞い戻っていた。正直、電気屋街に通っているうちにいつの間にかすっかりオタに戻っていた感じだが、これも絵に描いたようなルートであるかもしれない。

 二度目のオタク体験は、筆者にとっては不思議な感触のものである。正直、ずいぶん風通しが悪い世界になったな、という印象を持っている。この例は極端なのだろうけれど、2ちゃんねるのアニメ板などを覗いてみては、アンチの多さや場合によってアンチに乗っ取られているスレッドなどを見てやや驚いたりしている。

 作品に出合う幸せ、喜び、或いは語る楽しさ、に乏しく思うときがある。勿論、それらは変わっていないはずで、ただ一部の声の大きな向きを見てしまっているだけに過ぎないのかもしれないが。

 彼らはアニメや漫画やゲームにあらかじめ完成された、欠点のない充全なものを求めているようだ。それは成熟したということだろうか、或いは、メディアによるバッシングを恐れているのか、はたまた、かって青少年向けだったものにいつまでたってもとどまっている大人達の困惑や弁解や自意識上のゲームによるものだろうか。どちらが、或いは何が正しい姿勢だということではないけれど、それは私たちオタク第二世代にはないものだ。

 願わくば後代のオタク体験が、また私たちの二度目のオタク体験が幸せなものでありますように。