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『プラスティック・メモリーズ』にみる「人格」問題

 空想科学ADVシリーズの脚本家、林直孝さん脚本による注目のアニメ『プラスティック・メモリーズ』の放送 が始まった。非常に面白かったと思うし、続きがとても楽しみなのだけれど、一部ではSF設定が「ガバガバ」だとする突っ込みがされているようで、このあたりをめぐっていろいろ考えてみる。

 SF設定に対する突っ込みの多くは、主に次の点あたりにあるようだ。「人格を持つロボットを作り出すことが可能なのに、なんでバックアップできないの?」


 さて、この問いを逆に考えてみる。バックアップやコピーが可能なら、そこでの「人格」は一体どういったものになるのだろうか ?

 古くて新しい問いだけれども、例えば自分そっくりにコピーされ、自分と同じ記憶や知識をもったアンドロイドは、果たして自分なのだろうか?それはあくまでコピーなのであって、「私」がアンドロイドに移しかえられたと言えるのだろうか?

 仮に自分の経験や記憶をデータとして外部に保存し、それを新しい体に移し替え、命永らえていったとして、 それは「自分」の連続なのだろうか?

 『攻殻機動隊』あたりが軽々と越えていった(ないしは不問にした)ところだけれども、SF的には、むしろこういう問いこそお馴染みのテーマなんである。


 現在、人工知能の研究はあちこちで進んでいて、Googleが買収したイギリスのベンチャー企業DeepMindが自律学習を可能とするエージェントプログラムを開発したというニュースは世界を驚かせた。またホーキング博士ビル・ゲイツ氏が人工知能は人類にとって脅威となると警告を発したのも記憶に新しい。

 しかしながら、それでも人類は「知能」の謎にたどり着いたわけではない。コンピュータの能力が上がれば、 データの容量が多ければ、判断の能力や精度が向上すれば、それで勝手に「人格」が生まれるわけではない。自律的な意志、「私は私である」という主体性、これが一体どこから生まれてくるのか、どこからやってくるのか?そ れはまだまだ全く謎のままだ。

 「私」とは何なのか?

 例えば川原礫さんの『ソードアート・オンライン』WEB版アリシゼーション編に、コピーされた「人格」が、 コピーであることに耐えられずに絶叫しながら自壊していく、という場面があるのだけれど、要するに一つきり、一回きりであることの上に「私」という人格は成り立っているのかもしれない。古今東西ドッペルゲンガーに出食わすのはいつでも根源的な恐怖であり自己の否定である。

 或いは有名なニーチェの「人間は死ぬべきときには死ぬべきだ」の言の通り、有限な、唯一回きりの生、その 上に「私」という人格は成り立っている。

 とするなら、バックアップ不可能であり、かつ9年余りという有限の生が設定されているからこそギフティア には人格がある、と言えるのかもしれない。だからこそ「私」としてアイラは存在することができる。

 逆に、仮にバックアップや無限延命を可能とする技術があるとするなら、それは人間に対しても適用可能なはずで、この場合、随分と人間の「人格」のありようは変貌していることだろう。


 とまあ、つらつらと考えを流してきたわけだけれど、『プラスティック・メモリーズ』はラブストーリーらしい。少女の余命に意志的な生の圧縮された輝きを描く「サナトリウム小説」の類型に当てはまる物語のように見えるけれど、さてさて。

 恋愛である以上、「私」的な人格の問題であり、とするならそれは唯一で一回きりのものである。とするすると答えが出てくる優等生的な設定なわけで、まるで揺らぎがない。その揺らぎなさがSF嗜好的には物足りなく「ガバガバ」にも見えるのかもしれないけれど。

 物語の行方が楽しみだ。