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『風立ちぬ』のあとに

 TV初放映によって、改めて話題となった映画『風立ちぬ』について。

 

 『風立ちぬ』はひどい映画だ。といっても、駄作だとか出来が酷いといった意味では決してない。

 美しい飛行機への夢は無残に潰え、文字通り命を燃やして愛し合った伴侶も永遠に袂を離れた。なのに、その上で「生きねば」ならぬ、と言われたところで、もうどうしょうもないんである。引退し去っていくものは涙すればそれでいいかもしれないが、残される方はそうはいかない。

 『もののけ姫』の「生きろ」は、わかりやすかった。民と山を繋いで生きるアシタカとサンの未来を具体的に思い描くことができる。翻って『風立ちぬ』のあとに、何が想像できるかといえば、淡々とただ老いていく堀越老人の姿だけだ。時折彼は計算尺を握り、実現するはずもない飛行機を設計したりするのだろうか。

 この映画は何かに似ている。

 と思い返してみるに、それは新海誠監督の『秒速5センチメール』だ。次の恋への予兆も、幸せな社会生活への繋がりも、全てを振り切ってロケットは虚空の彼方へと飛び去っていってしまう。残された地上に響いているのは山崎まさよしの歌だ。静かな絶唱に落ちていくこの物語は、三部構成の物語としては明らかに破綻している。だけれども、だからこそ印象深く美しい。
 
 堀越二郎も遠野貴樹も、「他の人にはわから」れずに「いつでも探し」ながら、「その後」を生きていかねばならない。「ありがとう、ありがとう」と、菜穂子や明里に感謝を述べながら、「その後」はスクリーンの向こうである。


 どうやって私たちは、「夢のあと」を生きていけばいいのか? 

 遠野貴樹は、新海監督になったのかもしれない。堀越二郎は、宮崎監督にバトンを渡されたように、庵野監督であるのかもしれない。

 そして、こうして振り返ってみると、改めて言いたくなることがある。ひょっとして「しかし、誰もこうして提示された問いの答えに、辿りついていないのではないか?」

 庵野監督の新生『エヴァンゲリオン』はどうも迷走気味に見える。さまざまな呪縛を前に四苦八苦しているように見える。「キモち悪い」の一言で打ち切った「夢のあと」をどう生きていけばいいのか、宮崎監督からのバトンは全く投げられたままで回答にはまだまだ年月が必要な様子。

 新海監督の以降の作、『星を追う子ども』『言の葉の庭』はどちらも通俗に落ち過ぎて「手堅い」印象が強く残る。足フェチだけで後の長い時間を生きていくのは難しい。いや、おちゃらけずに真面目に書こう、『言の葉の庭』は素晴らしい作品なんだけれど、職人として生きる、が「夢のあと」を生きる処方なんだろうか?ほんとうに?

 
 どうやって私たちは、「夢のあと」を生きていけばいいのか?

 考えてみれば、「セカイ系」なるタームが成立して以降、ずっと私たちは探してきた気がしないでもない。それは端的にオタブームをどう軟着陸させることができるか、という問いに引き換えても良い。

 『風立ちぬ』が恐ろしく、そしてひどいのは、この作品が破綻していない、まったく完成品だということだ。それが意味していることは何だろう?

 

 今週のお題「ふつうに良かった映画」