ヲタ論争論ブログ

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アニメオタクとは何者か?

 これを書いた彼(?)はきっと若いんだろう。

 宮崎アニメのヒロイン、例えば『カリオストロの城』のクラリスがどれぐらい当時のオタク達にとって「ヒロイン・オブ・ザ・ヒロイン」だったかを知らないのだろうし、これをエロ同人化した牧村みきがどれほど叩かれたのかをきっと知らない。

 確か、ふくやまけいこさんだったと思うが、映画を観終わったあと一日中「カリ城ごっこ」(土手をルパンのように走りきる)をしたと、今はなき『ぱふ』紙上で嬉しそうに述べていたけれど、当時のオタク達がどれほどカリ城ごっこをして遊んだかを知らない。或いは、両手を繋がれたルパンと次元の逃走劇のフルアニメーションに、どれだけオタク達が夢中になったかを、きっと知らない。

 大友克洋については、みんな『AKIRA』より前から「童夢ごっこ」をしていた。後代のさまざまな作品に影響も与えた、老人が壁にめり込む例のシーンごっこである。続く『AKIRA』を支えていたのも当然オタクであって、特にその背景の緻密さは絶大な影響をオタク界隈にもたらしたものだ。
 
 押井守の『うる星やつら』テレビシリーズにおける逸脱やパロディ、または『ビューティフルドリーマー』に喝采を送ったのもオタク達であって、そもそもテレビシリーズの「みじめ愛とさすらいの母」(101話)あたりはどう考えてもオタクでないと理解できないし楽しめない。


 「ある朝、街が廃墟になっていたら楽しいな」、「文化祭の前日が永遠に繰り返せばいいのに」といった押井守の世界や、またはパロディや引用、『幻魔大戦』あたりから始まって、間に『超人ロック』や『僕の地球を守って』あたりを挟み、『AKIRA』へと爆発していく、超越的な力や終末論への嗜好など、どう考えても当代の感覚からすればこれらはオタ的想像力そのものではないかと自分は思うのだが。

 そもそも日本の「オタク」は降って湧いたものでもなんでもなく、例えばコスプレなどはアメリカのSFファンジンで行われていたものを輸入してきたものだ。上述のエントリで「オタ」代表とされるガイナックス庵野秀明だけれど、彼らももともとは日本SF大会のオープニング(DAICONFILM=日本SF大会大阪オープニングフィルム) を制作していた制作集団が母体である。「オタク」の底流には根強いSF嗜好があり、これにファンタジーやら特撮やらミリタリやが合流していまの「オタク」世界は成立している。


 しかし、どうも若い人達、またはこのところオタクを評する人達にとって「オタ的想像力」とはそれと全く異なるようだ。直接には、それは「萌えオタ」を指す。『IS』のシャルロットにブヒブヒ叫ぶ「萌え豚」が現れてから既に4年が過ぎているが、要するにそういうイメージだろうか。

 「オタ的想像力」において、美少女とは、「宇宙人な」美少女であったり「未来人な」美少女であったり、「超能力者な」美少女だったりと、要するに力点というか特質は「」づけのほうにあるのだというのが、ある程度の年代までの常識だったように思う。しかし、それらの感性は退化しひからびてしまい、ただ直載に美少女に萌えるだけの「豚」がいまや多数派になってしまったということなのだろうか?


 いや、ほんとうにそうなのかは再度考えてみるべきだ。

 前回のエントリではライトノベルについて述べたが、例えば、累計1千万部を超える大ヒット作と言われるライトノベルを並べると(オーフェン銀英伝といった古い作品を除く)、『とある禁書の黙示録』、『涼宮ハルヒの憂鬱(シリーズ)』、『フルメタル・パニック』、『ソード・アート・オンライン』の4つとなり、以下1千万部以下に『灼眼のシャナ』『キノの旅』などが続く。

 これらの作品を特徴づけるのは、実のところ第一に「バトルもの」または「SFジャンルもの」だろう。勿論、「萌え」るヒロイン達も満載だが。

 にも関わらずライトノベルに関する議論においては、しばしば何故か「萌え」が第一となり、その質が良しか悪しかは別として、「バトル」や「SF」への志向に関して言及されることがあまりない。

 恐らく、アニメのヒット作を並べてみた場合にも同じことが起こる。要するに、何故か論者たちは「萌え」について語りたがり、その他の要素についてはそれが「オタク」の特質や想像力であることが認められない。

 仮に既存SFの借り物であったり、または中途半端な知識の産物であったとしても、または中二やベタ過ぎるメタだったりするとしても、SFやファンタジーへの志向は列記としたオタクの特質として現前するわけだが、これらが全て「萌え」に収斂して語られてしまうのは何故なのだろうか?