ヲタ論争論ブログ

ヲタ、ネット界隈をめぐる論争的ブログです

ボーカロイド衰退論とネット発のクリエイションの行方について

 著名な歌い手、鋼兵さんのこの動画から、再び「ボーカロイド衰退論」に火がついている。

 対して、それは歌い手をはじめとする「外野」の勝手な都合に過ぎないという論考が出されているけれど、これはもう、ほとんど衰退を認めるに等しい議論になっているのではなかろうか。

 心情的には楽曲こそが中心だと言いたくなる気持ちはよくわかる。

 だが、あえて端的な言い方をするけれど、ボーカロイド・ムーブメントの特質は、楽曲制作にだけ、ボーカルが使えて曲が作れるというところにだけあるのではない。少なくとも初音ミクを産んだクリプトン社が目したものはそういったものではなかった。

 クリプトン社は、ボーカロイドが単なる仮歌ソフトとしてではなく、キャラクター性を伴うある種のヴァーチャルアイドルとして、もしくは何らかの共同的な象徴や幻想として支持されたことを実によく見抜いていた。

 初音ミクの突然のヒットに応じて、クリプトン社はキャラクタを含めた使用ガイドラインをまとめあげ、ピアプロなどを設置して環境の整備を図った。紆余曲折はあったものの、こうした尽力にもよって楽曲をはじめとしたイラスト、動画、3D、歌ってみた、踊ってみたその他諸々-後に「CGM消費者生成メディア)におけるUGC(ユーザー生成コンテンツ)」とかいう横文字で総称されるようになるけれど-これらボカロをめぐる制作物は単なる二次創作ではなく、一個の「クリエイション」としての地位を持つことができるようになった。

 よって続々と商業的にもデビューを果たす創作者が出たわけだけれど、その本質は、ボカロに関わる限り、楽曲制作者であれ絵師であれ動画師であれ歌い手であれ技術部員であれ何であれ、一個の「クリエイター」になりえるというところにこそある。その意味では、楽曲制作はそのうちの一分野に過ぎない。

 それは『Tell Your World』に語られた通り。こうした特質を欠いてボカロを語ってはならない。またそれはボカロ・ムーブメントの価値を損なう。3DダンスソフトやVRの象徴的キャラクタに初音ミクが用いられることまでを含めてボーカロイド・ムーブメントである。ネット界隈において、紛れもなくボーカロイドFLASHに継ぐ大規模な、多様な才を巻き込んだ「クリエイティブ」なムーブメントだった。


 こうしたボカロ界隈の未来を、尻Pこと野尻抱介さんは軌道エレベーターや星間文明とのコンタクトにまでぶっとばして描いたが(『南極点のピアピア動画』)、果たして3年後の現在、それが楽曲制作のみに集約されてしまうとするなら、それはやはり衰退と言ってさしつかえないのではないかと思う。

 或いは、ソフトとしてのボーカロイド分野は成熟し、また今後も継続し発展していくのに対して、ヴァーチャルアイドルとしての、何らかの共同幻想としてのボーカロイドは衰退した、と区分して考えることもできる。しかし、それでも、やはりそれはネット界隈における「クリエイション」が大きく後退したことを意味する。

 ネット発のクリエイションは、これまで「自滅」を繰り広げてきた。BMS著作権の壁の前に潰え、『電車男』では反駁する人々の総叩きがヒッキー板に押し寄せた。FLASHは商業化目前にしてのまねこ騒動に呑まれていった。対して、ボーカロイドはクリプトン社の尽力もあって、ネットの歴史上、ほぼはじめて道を大きく整えることに成功した事例だと言える。

 このまま「衰退」していくのだろうか?もしくはまた「復活」していくのか?ボーカロイドという枠を超えて、ネット発のクリエイションは今後どこへいくのか、それが気にかかる。「ボーカロイド衰退論」なるものが示しているのはそういう問題提起ではなかろうか。

『ゼロの使い魔』続刊は誰が書くのか?ガチで予想してみる

 絶筆となっていたヤマグチノボルさんの『ゼロの使い魔』、続巻刊行決定という待望のニュースに多くの人達が湧き立っています。筆者も素直に喜んでいるうちの一人で、かのゼロ魔を完結まで見守ることができるのはほんとうに嬉しい限り。

 かってゲーム制作で同僚だった玉置勉強さんがヤマグチさんを称して、いい人過ぎて貧乏くじを引く苦労人だと述べたことがありまして、惜しんでも惜しみ切れないヤマグチさんとその作品世界について書きたい事は山ほどあるんですが、それはさておき、今回は多くの人が気にしているだろう、「続刊は果たして誰が書くのか?」に絞って書いてみようと思います。

 2年前にMF文庫J編集部が提示することのできた作家であることをもとに、作品歴、ファンの間で取り沙汰されている声その他諸々をあわせてガチで検討し予測してみましょう。俺のMFフォルダが火を噴くぜ★


築地俊彦さん

 本命かなあ。『ゼロの使い魔』以前、魔法学園モノといえばこの方の『まぶらほ』だった時代があります。ヤマグチさん当人が絶賛していた作家であり、病室に見舞うなど個人的な交流もあった様子。最近は『艦隊これくしょん -艦これ- 陽炎、抜錨します!』で既存プロットを生かした仕事でも素晴らしい結果を出しているので、文句なしに代筆をこなしてもらえる作家さんだと思います。

 但し、この6月に他社で新刊を出し7月にも予定があり。続いて8月に艦これの続刊も予定と、他社での出版予定が続き、どこにMFでの代筆の余裕があるのか、を考えると難しいかも。

桑島由一さん

 対抗。GROOVER-FrontWing時代のヤマグチさんの同僚であり、『神様家族』ほかMF文庫Jでの実績もあることからファンの間で代筆の可能性が高い人としてよく取り沙汰されます。同じ美少女ゲーライター出身ということであれば、MFなら柊★たくみさんや片岡ともさん、ライアーソフト木村航さんなんかの線もあるわけですが、やはり同僚として同一作品でシナリオを詰めるという実績があるのは大きいでしょうね。

 リリカルな彼の感性がゼロ魔世界により彩りを添えることでしょう。但し、最近の活動は音楽方面に没頭というか志向の中心は音楽の方にあるようで、小説に軸がない様子なのが気がかりというか、もし依頼されても引き受けない可能性も高いのではないかという気もします。

鈴木大輔さん

 MFでは『お兄ちゃんだけど愛さえあれば関係ないよねっ』でお馴染みの作家さんです。この作品を含め二度のアニメ化実績があるベテランさんですが、基本、与えられた仕事は何でもこなせる多作の職人肌な作家さんのイメージから挙げてみました。プロットの決まった作品だと『文句の付けようがないラブコメ』のようにこれまた冴える作家さんです。

 頭の湧いた女の子の描写もなかなかですので、魅力的なルイズやサイトに出会うことができるのではないでしょうか。現在のところ鈴木さんには手広い割にビシッと完結した作品が少なく、その意味で鈴木作品の完結ぶりを見てみたいというのもあります。

七月隆文さん

 『俺がお嬢様学校に「庶民サンプル」として拉致られた件』が今年アニメ化する七月さんですが、MFでの出版歴もあります。あかほりさとるさんやアニメの脚本家として名高い花田十輝さんに師事していたこともあって、実に手堅くラブコメの粋を味あわせてくれます。女の子の造形がとてつもなくかわいく、「幼馴染」や「ツンデレ」といったテンプレの純度を高めてトリッキーなこともできる作家さん。

 日日日さんとのシェアワールド作品の実績もあります。但し、前述のように代表作のアニメ化が控えている時期ですから、代筆する余裕はないかもしれません。

葉村哲さん

 知る人ぞ知る、MFの秘蔵っ子。ピーキーな女の子の造形と主人公とのスプラスティックなやりとりには定評があり、根強いファンのついている作家さんです。学園モノだけでなくファンタジーも幅広く書ける人。MFファンなら文句の出ない人選ではないでしょうか。

 但し、あまりにもイラストで組んだほんたにかなえさんのイメージが強すぎて兎塚ルイズやサイトとは齟齬が大きい気もします。ほんたにさん以外と組むことがないわけじゃないんですが、彼女とセットでファンになってる人も多い気がする。

本田透さん

 ご存じ『電波男』の人。ボクタチの萌えを哲学にまで昇華させた希代の「オタク」ですが、ライトノベル作家としては『ライトノベルの楽しい書き方』が著名、MFでの出版歴もあります。「ツンデレ」ブームの一つの締めくくりをこの方にやってもらえたら文句がないのではないかと。というより正直この方の描くルイズというものを見てみたい。

 但し、残念ながら3年前から事実上音信不通の状態です。この方の復活はそれ自体で大きなインパクトになるので、ちょっと話題先行になり過ぎる面もあるかな。

赤松中学さん

 累計500万部を突破し現在のMFを支える代表作でもある『緋弾のアリア』の作家さん。そのヒロイン、アリアの声優が釘宮理恵さんだったこともあって、連想的にゼロ魔の代筆者としてファンの間でよく名前の挙がる作家さんですな。銃器類に造詣が深く、熱いバトルも存分にお任せすることができますね。

 ただ、ただでさえメインヒロインの並べられがちな作品を、作家が代筆したいかといえば、NOかもしれません。一個の作家ならあまりやりたくない仕事ではないでしょうかね。

榊一郎さん

 『棺姫のチャイカ』や『アウトブレイク・カンパニー』のヒット、アニメ化も記憶に新しい、誰もが知ってる偉大なヒットメーカーさん。MFでは『イコノクラスト!』というヒット作もあります。『神曲奏界ポリフォニカ(シリーズ)』でシェアワールドの実績もあり(ついでにその『ポリフォニカ』でイラストの兎塚エイジさんと組んだこともあります)、ガンマニアでもありと、もうほんとお願いできるならこれ以上の方はないかもしれません。

 ただ、作風はところどころでネジの飛ぶヤマグチ作品に比して冷淡といいますか、冷静沈着ですので、微妙にそぐわない感を味わうことになるかもしれません。

月見草平さん

 東大大学院卒というインテリ作家さん。ブログ上でSTAP細胞をめぐる論文騒動にコメントを入れたりとそのバックボーンが伺えます。MFで手堅くシリーズ化実績を積み重ねてきており、葉村さん同様、MFの秘蔵っ子的な位置。学園モノから職業ファンタジー、バトルファンタジーと幅広く、素敵なゼロ魔を読ませてもらえるのではないでしょうか。

 『輪廻のラグランジェ』の小説版ライティングも好評で、既存プロットをもとにしたライティングでもきっと冴えある作品になるだろうと思います。実は一迅社のほうで兎塚エイジさんとのコンビも組んでおり、連携もばっちり。

賀東招二さん

 かの「遊演体」や『蓬莱学園』シリーズに参加し、ハードなバトルからスプラスティックなギャグまで数々の作品を提供してきた大ベテランさん。アニメの脚本でもお馴染みです。本人どうも学園モノやラブコメは苦手とのことですが、そんなこと全然ないのはこれまでのヒット作で皆さんご存じのことかと。ファンの間でも盛んに代筆候補として名前が挙がっているようです。

 病床のヤマグチさんを見舞うなど、個人的交友もあったようですが、ただ残念ながらMFでは実は出版歴がないんですね。そんな大ベテランをMFが引っ張ってこれるのかというと疑問かも。


 以上、とりあえ10名の作家さんを推測候補として挙げさせていただきました。

 勿論、誰になっても文句は言いませんし、また予想される様々な重圧や声やに惑わされずに素晴らしい作品を届けてもらえたらと願っています。どの作家さんが引き継ぐのか、発表が楽しみです。

「駆逐艦をハイエースしてダンケダンケ」-エロ漫画の影響力がパな過ぎる

 「駆逐艦ハイエースしてダンケダンケ」-まあ、筆者もこの意味をほぼ正確に読めてしまうわけだけれど、恥を忍んで言おう、このオタ世界に対するエロ漫画、エロ同人の影響力は半端ない。

 昔っから大型ワゴン車は色々な犯罪に用いられてきたとはいえ、オタ達の間に「ハイエースする=幼女誘拐」(女性ではなく、幼女であることに留意)なる定義を一挙に広めたのはクジラックスさんの短編漫画『ろりともだち』だ(※コメントを参照ください)。「ダンケダンケ=性行為」なのは真・聖堂☆本舗の艦これ同人『ダーンケ❤セックスしよっ❤』だろうと思われる。

 たった一つの短編、一冊の同人でこの影響力なんだから半端ない。っていうか特にクジラックスさんのほうは知られ過ぎていてちょっと恐ろしい状況だと思わないでもない。少し前に、たった一冊しか成人向け単行本を出していないのに、鳴子ハナハルさんのその印税収入が推定約1億3000万円に達するという記事を見て、「おまいら、どんだけ」と驚いた覚えがあるけれど、いやはやエロ漫画、半端ない。

 昔っから「DVD!DVD!」だの「キモーイ!童貞が許されるのは小学生までだよねー」だの「やったねたえちゃん、家族がふえるよ」だのと、流行になったエロ漫画由来の台詞や場面はあるわけだけど、「ハイエースする」とかいうひとつのスラングにまで昇格したのははじめてかもしれない。

 オタ界隈やネットのスラングや用語として、著名なものでたとえば「フラグ」はゲーマーから、「ツンデレ」は特にエロゲからキャラクタ談義を通じて、「メンヘラ」や「ヒッキー」は2ちゃんねる、の特にvipからは「kwsk」や「ggrks」、ギャル語としても普及した「てへぺろ」は声優の日笠陽子さんが考案し声優グループから始まったとなどとされているけれど、こうして並べてみるとその時々に勢いのあるところから著名なスラングや用語が出てきていることが分かる。

 いま、(正確に言うなら今回はロリ系の)エロ漫画、エロ同人から有力なスラングが登場するということは、いま、ひょっとしてこの界隈で一番力を持っているのはやっぱりこの分野だということなのかもしれない。

 それにしても児童ポルノ法において「単純所持」が間もなく罰則対象になるというこの時期に、Google汚染まで進めていて大丈夫なんでしょか。そのうち「炉」とかいう用語と同じく、「ハイエース」や「ダンケ」や「駆逐艦」なども「正常化」されて隠語として機能しなくなる可能性もあったり。

実写版『進撃の巨人』を心の底から楽しみにしている

 立体機動シーンの入った予告編第二弾が登場。さっそくワイヤーアクションがしょぼいだの恋愛要素がどうだので絶賛大炎上中な様子で。

 実写版『進撃の巨人』が面倒くさそうなのはたとえば以下のブログにある通りで、

 なんだけれど、実は自分は心の底からわくわくと楽しみにしてる。いやほんとに。別に逆張りしたいとかそういうわけでなく、この映画やっぱ見どころがかなり多いんじゃないかなあ。

 第一に、壁内世界の再現度が凄まじい。たとえ明らかにCG臭いといっても、一度は体験してみたい原作の壁内世界をきっちりしたスケールで再現してるのはそれだけで痺れる。

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 こうして並べてみると、絵的にもすごくいい。ちょっとこれまでを抜けたスケールを感じないだろうか?こういうところはアニメや原作よりも良いなと正直思う。

 もともと自分にとっては物語、特に後半のぶつ切り感を延々続くパニック特撮のスケール感で押し切った『日本沈没』(1973年版)あたりが「特撮映画」のイメージとして基本にあって、それでいいんだよ、みたいな受け止め方をしているところはあるんだけれど。

 ぶっちゃけた感想としてその1973年版に及んだとは言い難かった『日本沈没』を撮り、『ローレライ』も特に後半はどうしようもなかった樋口監督だけれど、今回はいい方向に転んでる予感がする。

 ちゃっかりやっかいな「特撮おじさん」と化しつつ、あえて言う。要するに原作だのキャストだの恋愛要素だのは二の次、三の次。「特撮」なんだよ、世界のスケール感がほんとに楽しみなんだ。

沖縄独立論と沖縄アニメ

 このところ、沖縄ないし「沖縄独立論」をめぐる議論をとんと身の周りでは聞かなくなった。先月あたり、あれほど喧しかったのにどうしたのだろう?沖縄をめぐっては知事の訪米や県民集会や石垣市長の発言やNHKスペシャル(『沖縄戦 全記録』)があったわけだけれど、俄かには話題になったけれど、どうも「本土」のこちらでは雰囲気が見えてこない。(きっと沖縄側では違う)

 本来なら、いまの時期にこそ沖縄をめぐる議論は最も盛り上がるものなんじゃないのだろうか?6月は夥しい住民犠牲を出した沖縄戦最末期の季節であり、23日は司令官自決による沖縄戦の組織的戦闘終了の日であって摩文仁の丘で慰霊と平和祈念の式典が開かれる。学校や官公庁は公休日となり、正午には黙祷がなされるという。この重要な季節に、何故、沖縄をめぐる議論が目につかなくなってきているのだろう?それとも23日には再び火がつくのだろうか?

 ちなみに、改めて整理しておくに、いま沖縄が求めているのは基地撤回を実現することのできる「自治権の拡大」であって「独立」ではないように見える。仮に事態が極端に進行するとしても、現出するのは「沖縄自治区」や「琉球州」であって「沖縄共和国」や「琉球首国」などではない。自治区と言うと、すわ中国の回し者と反応されてしまう気もするけれど、世界を見てみれば自治区なり民族連合国家なり連邦なりいくらでも多民族を含む国家の在り方はあり得る。

 にも関わらず一足飛びに「独立」ばかりを問題とし、やれ中国の策動だの反日だの叫んだり、もしくは独立後の経済だの行政だのばかりを論じたがる人達は、まるで国家は単一の民族、単一のフレームでなければならないと無前提に思い込んでいるようだ。それがますます沖縄の人達にとって無意識的な強圧になっていなければいいけれど。


 と、何故一介のアニオタに過ぎない筆者がわざわざこんなことを考えているかというと、沖縄アニメってそういえばどうなってるんだろう、ってなことをふと考えてみたからだ。

 たとえば沖縄「音楽」にはよく知られているように固有の特質と世界がある。伝統的な琉球民謡に始まって、喜納昌吉りんけんバンドなどがメジャー化に道を大きく拓いたオキナワンポップスほか、沖縄テイストを取り入れたアーティスト達による数々のヒット曲によって「沖縄音楽」という確固たる世界があることを私たちは知っている。

 それは民謡であったり基地仕込みのジャズやフォークやロックがルーツになっていたり、はたまた別の道から始まるものだろうけれど、他に替えがたく沖縄の歴史と文化に根づいた音楽としてそこにある。

 あるいは、沖縄「美術」にもそれはあって、琉球漆器や紅型などの伝統工芸のほか、実は戦後になって基地の出す廃材から始まった琉球ガラスなどが有名だけれど、「ニシムイ」に始まる沖縄風土とも密接に絡む戦後現代絵画の流れもある。


 翻って沖縄「アニメ」はどんなものだろう?

 2012-2013年にかけて沖縄ローカルで放映され、その後全国でも放送された5分アニメ、『はいたい七葉』が一番最近かつ代表の例になるだろうか。

 その前年(2011)には県観光農商工連携強化モデル委託業務の一環として行政産のアニメがつくられた。但し、残念ながらこちらのプロジェクトは凍結されてしまった模様。

 これらの「沖縄アニメ」を観て思うのは、現代アニメはひょっとして固有の地方性や民族性やを孕むことを苦手とする側面があるんじゃないかということだった。

 まるっこい目鼻立ちの目立つMirikaのほうはまだなんとなくそのように見えなくもない気もするけれど、正直、七葉の方は「本土」のアニメとまるで変わらないわけで、単に舞台が沖縄になっているだけだ。たとえば『BLOOD+』が沖縄のゴザ市を舞台にしているのと同じで、「沖縄アニメ」ではなくいわゆる「ジャパニメーション」なんである。

 それが良いとか悪いという話ではなく、どうも「ジャパニメーション」は地域性とは相性が悪い。このことは西又葵さんがあきたこまち米のパッケージを手掛けたあたりから顕著になっていた話で、正直西又さんのイラストはあきた美人だのの特性を全く孕んではいない。

 東欧系だろうとラテン系だろうと東洋系であろうと基本一緒な『ヘタリア』あたりをあっさり受けて入れている私たちは、髪の色や言葉遣いやという設定一つで国籍すら区別をつけてしまうという文脈に慣れ過ぎている。「ハンコ絵」という言い方もあるけれど、極端に言ってしまうなら「ジャパニメーション」なり「現代オタカルチャー」のキャラクターは日本人でも外国人でもない、出自不明で無国籍な人達なんである。

 このことは、現在なお盛んに進められているアニメで村おこしなどの行く末を不安にさせる。地域性に優れた傑作といえば『じゃりんこチエ』や(別に意味で特性を持っている)『はだしのゲン』などがあるわけだけれど、今後このような作品は生まれてくるのだろうか?

 沖縄音楽や沖縄美術のような、特性ある沖縄アニメが観てみたい。或いは探してみたい(自主制作などもあるはず)。そして、そのとき、出自不明な文脈に慣れきった私たち現在のオタはこれを見てとる眼を持てるだろうか?或いは、そういう眼を持っていたいと私は思う。

私にとってオタク体験は幸せなものだった

 「オタクの不遇時代」について、盛り上がっている。毎度毎度のことオタクは不遇なものとして語られるが、さてさて、たまにはオタクの幸せについて、または幸せだった時代について語ってみるのはどうだろう。個々人の私的な体験は年代論などに合致するものではないが、筆者はあえてこう書いてみる。「私たちの世代のオタクは幸せだった」。

1.

 確か岡田斗司夫さんだったと思うが、彼が区分したオタクの幾つかの世代のうち、筆者は第二世代にあたる。上に引用する漫画を描いたエリコさんよりひと周りほど先行する世代であり、はじめて「おたく」という呼称を与えられた世代でもある。中森明雄さんが「おたく」なる用語を生みだしたのは『風の谷のナウシカ』劇場公開のその前の年のことだ。このとき、筆者は思春期真っ盛りの丸刈り(当時の多くの地域での校則である)の中学生だった。

 小学校時代にガンプラブームの洗礼を受け、『幻魔大戦』や『ガンダム』の映画を観にいき、すがやみつるさんの『こんにちはマイコン』をマイコンを持ってもいないのに熱心に読み込み、ファミコンの登場やゲーセンの『ゼビウス』などに心躍らせていた私たちにとって、アニメや漫画、ゲームは既に身近なものだ。そこへやってきたのが宮崎監督の『風の谷のナウシカ』だった。

 『風の谷のナウシカ』は文部省推薦か何かの映画であり、意外に思われるかもしれないが「良識ある人々によるお墨付き」な映画として全国の学校で上映されたりした。そこで魅了され、「オタク」なるものへの目覚めの嚆矢となったと語る人達も数多い。筆者も中学校の体育館で体育座りをしながら鑑賞し、オームの巨大さに戦慄したり、同級生達とナウシカはノーパンかどうかを熱く議論したクチだ。

 素晴らしい久石譲さんのサウンドに惹かれ、当時急速に普及しつつあったレンタル屋でサントラを借り出し、「メタルテープ」に録音して擦り切れるほど聴いていた覚えがある。いずれにしても宮崎映画の名作化は最初、半ば官製だったことはもう少し強調しておいていいかもしれない。

 テレビでは『うる星やつら』で押井監督の暴走が始まり、『マクロス』などがヒットしていた。晴海で開かれていたコミケは既に20万人という動員数に達しつつあり、主要な都市圏にはアニメイトが出来ており、書店の店頭には『アニメージュ』ほか複数のアニメ雑誌が並んでいた。こうした中で抵抗なくどっぷりとアニメや漫画に私たちは浸っていった。

 当時の世相としては、尾崎豊さんの『卒業』がリリースされたのがナウシカ上映の翌年のことあり、要するに世の学校は「荒れ」と「管理教育」の混淆する時代だった。次の年には「葬式ごっこ」で知られる悲劇的な中野富士見中学いじめ自殺事件が起こり、「非行」から「いじめ」へと学校問題の焦点は移っていく。ちなみに、やがて『夕焼けニャンニャン』の放映が始まり、「おにゃん子クラブ」あたりが青少年世代を代表するカルチャーとなっていく。一方で雑誌『宝島』や『バンドやろうぜ』の名前も懐かしい、バンドブームも起こる。

 そうした時代にあって、しかし、「オタク」だからといって蔑まれたり嘲笑された記憶はまるでない。環境に恵まれたのも大きいだろうが、まだ宮崎勤事件を知らない私たちにとって、「オタク」は今でいう「情強(笑)」程度のニュアンスでしかなかった。今の時代でもそうだけれど、中高生がアニメ、マンガやゲームに親しむのはごく当たり前のことでもある。そのうち、やたら詳しいやつら、といったものでしかなかった。親や教師たち、或いは行政の心配は非行やいじめのほうにあり、アニメや漫画で騒いでいる連中、ナウシカの上映会で大人しく鑑賞する連中など、平和な優等生だったからである。

 いまや伝説のロリコン雑誌となった『レモンピープル』も中学校の同級生から密やかに回覧されて筆者の手元にもやってきたが、背徳感に目眩がするほどドキドキしつつも「ロリコン」だと特別異常に思った記憶もない。なにせ自分が中学生なんである、山道で拾うガビガビになったエロ本のおばさんのエロとは違う、同級生のエロなんであった。

 ちなみに、「三次元の女の子は怖い」という考えもあまりなかった。むしろ「オタク・カルチャー」は多くの人々と知り合うきっかけを与えてくれるものだった。戦前の学生達は禁書である『資本論』などをちらつかせ、仲間を探したというが、それに似て筆者たちは雑誌『ファンロード』や『OUT』を片手に仲間を増やしていった。「ローディスト」ないし「アウシタン」であれば、誰とでも意気投合できたのである。

 こうして高校の頃には同級生や知り合いをつたって他校の生徒達とも交流を持つようになった。アニメーション研究会に所属していた女生徒に激烈に恋をして、その縁で同人誌即売会の売り子に駆り出されたりもした。先輩達の発行する同人誌にゲスト執筆するようになったり、『ファンロード』にイラストを投稿して何度か掲載されたこともある。

 こうして、筆者は気がつけば高校生にして同人誌に原稿を描いたり、即売会で売り子をするような「エリートオタク」になっていた。それは振り返れば大人達にも見守られ、多くの作品や人々との出会いに恵まれた、砂糖菓子のように甘く優しい、そして良質な体験だったと思うことができる。後代の「オタク」たちが苦心惨憺し、いまなお自意識に深刻な影を落としているとするに比べるなら、なんと幸せな体験だったことだろう。

2. 

 何が後代と違うのか。ということをしばしば筆者は考える。宮崎事件やメディアによるバッシングを置いて、一つ理由を挙げてみるとするなら、当時のオタカルチャーはその「狭さ」や「未成熟さ」もあって、外部に大きく開かれていたということだろうか。

 当時のイラストや1、2ページの短編マンガは一つの作品としての強度をもっておらず、しばしば多くが好きなものや元ネタについてのコメントを伴っていた。要するに一つの作品ではなく、趣味の「語り合い」の一つの手段としてそれらはあった。読者の投稿によって成り立つ『ファンロード』などが代表的だろうが、素人に限らずプロ作家達も延々とコメントを垂れ流していた。たとえば士郎正宗さんの『攻殻機動隊』原作漫画の欄外をびっしり埋め尽くすコメントに驚く人がたまにいるが、当時のオタク達は熱い視線でもってそうしたコメントを一字一句漏らさず拾い上げていた。

 こうした語りや、作家達が時折なすパロディを通じて、「オタク」達は外部や「ルーツ」を参照していった。なんせ未熟なオタク界隈である、境界線などやすやすと越えて、当時のオタク達は貪欲にいろいろなものに飛びつき、食いついていった。幾つか思いつくままに以下、列挙してみる。

 SF小説なら、第一世代のオタク達がそうであったように、その薫陶を受けた第二世代な筆者たちも早川文庫でハインライン、クラーク、ブラッドベリなど皆読んでいた。国内作家なら小松左京星新一筒井康隆さんらは鉄板であり、まだSFファンジンの影響の強かった当時のオタク界隈ではSF大会の動向などもよく喧伝されていた。筆者も「火星年代記」などをページが擦り切れるほど読みこんだクチだが、大原まり子さんや岬兄悟さん火浦功さんほか、新しいスターとして登場した新井素子さんなどもよく読まれていた。新井さんは当時のコバルト文庫でも執筆していた、オタク達の同世代のスターでもあった。

 ゆうきまさみさんやとりみきさん、出淵裕さんたちのグループは大林監督の映画『時をかける少女』の原田智世さんに心酔し、盛んに彼女をプッシュしていた。マイケル・ジャクソンの「スリラー」をオタク界隈に持ち込んだのもこの人たちだったように覚えているが、とにかく原作者である筒井康隆さんや眉村卓さんへの参照もあって、大林監督の尾道三部作は界隈でも有名作であり、必見の映画でもあった。特撮の粋をつくした『日本沈没』などもよく参照される作品だったが、同時に当時のハリウッド映画のヒット作『インディ・ジョーンズ』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『ネバーエンディング・ストーリー』などもよく参照された作品たちだった。概して当時のオタク達はSFやファンタジーであれば何にでもよく食いついていた記憶がある。

 音楽では、雑誌『ファンロード』上で湖東えむさんが「たのきんトリオ」で最も脚光の当たらない野村義男さんを推していたほか、本田恭章さんや中川祥子さんの父親である中川勝彦さんをプッシュしていた。当時MTVに習って日本国内のアーティスト達も盛んにビデオクリップを流し始めていたが、デビューしたばかりの爆風スランプ米米クラブなども良く参照されたアーティストだった。ちなみに、雑誌『ファンロード』は何故か編集長Kさんの趣味で毎年連載陣やゲストたちとともに台湾に出かけており、おいしそうな排骨飯の写真が掲載されていた。筆者は台湾料理がおいしいものであることをこの雑誌ではじめて知る。

 ほか、何といっても当時のイラスト描き、漫画家にとってのスターだったのは谷山浩子さんだ。彼女のファンタジー性や物語性溢れる楽曲は多くの作家達のイマジネーションを大いに刺激したらしく、楠桂(大橋真弓)さん、水谷なおきさんほか、多くの作家達が彼女を援用した。

 これらは、あくまで幾つかの例であって、他の場所では他のものが参照されたり援用されていた。挙げていけばきりがない。

 今でも『けいおん!』からバンドを始めたり、ボーカロイドDTMに目覚めたり、『アイマス』からアイドルオタへと転身したりする例はいくらでもあるかもしれない。が、ニュアンスが違うのは、当時のオタクカルチャーは要するに穴だらけだったということだ。パロディや援用がなければ、成り立たないものが多くもあったのである。一般漫画やアニメに対して、パロディや作品として成り立ち難いもの、といったニュアンスが当時の「オタカルチャー」には歴然たる意味合いとしてあった。飽き足らないから外部やルーツをたどるわけで、また外部やルーツをオタカルチャー的に「描き直す」時期でもあった。

3.
 そして、筆者は後にやってくる悲劇、「宮崎勤事件」がオタク界隈にもたらした衝撃や影響について知らない。その抑圧や暗さをリアルには知らない。何故なら、その頃筆者は「ステップアップ」(あくまでカッコつきの言い方だ)していたからである。

 イラスト描きから絵を描くことに目覚めた筆者は芸術系の大学へと進学した。そこで現代美術に出会った筆者は、オタクカルチャーの二次元性より、アヴァンギャルドの力動性や衝迫性に目を奪われていくことになる。前衛演劇の舞台美術作りや自主映画に没頭したり、はたまた大学生らしく飲み歩いたりクラブハウスで遊び歩いているうちに、いつのまにか「宮崎勤騒動」は筆者にとって遠い世界の出来事になっていた。

 絵に関するあれこれの道を辿るうち、「ステップアップ」していったということになるのだろうが、やがて大学院に進む頃には、アヴァンギャルドの理論からフランクフルト学派に傾倒して、アドルノの『美の理論』を紐解き、お勧めの書物は『夜と霧』です、というような別の意味でこそばゆい青年になっていた。ある種絵に描いたようなルートである。

 こうして振り返ってみると当時のオタカルチャーは外部に大きく開かれていたぶん、当時の青少年にとって通過するべき「ジュブナイル」的な側面を多く持っていたのかもしれない。当時のオタクカルチャーの「文法」に従って筆者たちはさまざまな文化的教養の取っ掛かりを与えられ、それをもとに貪欲にルーツや外部を探し、そしてやがてその糸を辿って「卒業」していった。開かれ穴だらけだったぶん、「卒業」もしやすかったと言える。

4.
 ちなみに、筆者が横井軍曹よろしくオタカルチャー界隈に「恥ずかしながら帰って参りました」のは、就職して生活もルーチンなものとして落ち着いた頃に、IT革命とやらに出くわしたからである。2ちゃんねるの創生に出会ったりWEBづくりやFLASHやらニコ動やらで遊んでいるうちに、やがて秋葉原日本橋が電気の街からオタの街へと変貌するに合わせてどっぷりオタカルチャー界隈へと舞い戻っていた。正直、電気屋街に通っているうちにいつの間にかすっかりオタに戻っていた感じだが、これも絵に描いたようなルートであるかもしれない。

 二度目のオタク体験は、筆者にとっては不思議な感触のものである。正直、ずいぶん風通しが悪い世界になったな、という印象を持っている。この例は極端なのだろうけれど、2ちゃんねるのアニメ板などを覗いてみては、アンチの多さや場合によってアンチに乗っ取られているスレッドなどを見てやや驚いたりしている。

 作品に出合う幸せ、喜び、或いは語る楽しさ、に乏しく思うときがある。勿論、それらは変わっていないはずで、ただ一部の声の大きな向きを見てしまっているだけに過ぎないのかもしれないが。

 彼らはアニメや漫画やゲームにあらかじめ完成された、欠点のない充全なものを求めているようだ。それは成熟したということだろうか、或いは、メディアによるバッシングを恐れているのか、はたまた、かって青少年向けだったものにいつまでたってもとどまっている大人達の困惑や弁解や自意識上のゲームによるものだろうか。どちらが、或いは何が正しい姿勢だということではないけれど、それは私たちオタク第二世代にはないものだ。

 願わくば後代のオタク体験が、また私たちの二度目のオタク体験が幸せなものでありますように。

『艦これ』の政治的な位置について。ー『艦これ』は海上自衛隊であるー

 アニメ一期も終了し一段落ついたところで、あらためて『艦これ艦隊これくしょん-』について。その政治的な位置について。


 『艦これ』は海上自衛隊である。

 かつての戦艦の名を受け継ぎ、艦娘として復活したのが『艦これ艦隊これくしょん-』だとするなら、それと同じことをやっているのが戦後の海上自衛隊である。かつての名を継ぎ、「こんごう」「はるな」「きりしま」「ひえい」の四姉妹、「いせ」「ひゅうが」や、「あたご」「あしがら」「ちょうかい」「みょうこう」らの姉妹達、「しまかぜ」「はつゆき」「むらさめ」その他諸々も、それぞれ艦型は異なれど「護衛艦」として戦後復活している。そして、これらはあくまで「護衛艦」であって「戦艦」ではないんである。

 別に穿った見方をしたり、無理な類推をしているわけではなく、プロデューサーである田中謙介さん当人が原作を手掛けた『いつか静かな海で』を読むとはっきりとわかる話で、ここでは艦娘達の意思(遺志)を継いだものが戦後自衛隊護衛艦であると描かれる。『艦これ』を論じる人達はまずこの漫画を読んでおくべきだと思う。少なくとも田中さんにとっては戦後の海上自衛隊のありかたが念頭にあるということになる。


 自衛隊が軍隊であって軍隊でなく、その位置づけも宙吊りな位置にあるのと同様、『艦これ』もまた不可思議な設定の上にある。敵は曖昧模糊として正体不明であり、艦娘たちは艦なのか娘なのかよくわからない。

 アニメ版『艦これ』はこうした曖昧さを明確にヴィジュアル化したさらに座りの悪い物語に思え、ちょうど自衛隊をアニメ化するとこんな感じになるのではないかと思いながら筆者は観ていた。自衛隊は(現実はどうあれ)、ガチ過ぎる軍隊であっても、また腑抜け過ぎる学園として描かれてもいけないんである。また、たまたま演出上の偶然だろうけれども、姿なき司令官は顔なき国民達の意思、文民(政治)の統制を受ける自衛隊のありかたによく合致していた。


 『艦これ』サービスが始まった時、多くのプレイヤー達の心を捉えたのは、「艦隊」、要するに戦艦や空母の方だったように思う。田宮や青木のプラモデルがちょっとしたリバイバルブームになったわけだけれど、「コレクション」を進めるうちに顕現する、当時世界でも最精強と謳われた旧帝国海軍の威容やこれらが激突する機動艦隊戦を想起してプレイヤー達は心躍らせていたことは間違いない。よって彼らはアニメの「水上スキー」に失望する結果になった。

 ゲームの時点で、補給や資源を重視するゲームであるをたびたびコメントし、これを無視して大量の餓死者を出した旧軍との違い(または反省)をちらほらと窺わせるものだったけれど、さらにアニメ版『艦これ』で描かれたのは旧軍との違いである。

 アニメで描かれたのは旧帝国軍の「生きて虜囚の辱めを受けず」ではなく、必ず生きて帰ってくるべき、暖かい仲間や先輩や姿なき司令の待つたたかいであり、またビンタも営倉も理不尽なしごきもない自発と創意のトレーニングや、時折巻き起こる騒々しく賑やかなお祭りだった。言うまでもなくここに反映しているのは戦後の平和的民主国家における理念的な、或いは田中プロデューサー達が思い描くありようである。


 しばしば『艦これ』は左右から指弾を浴びる。典型的な軍国化から先人たちへの侮辱といった様々な方向から批判がなされ、たびたび話題となる。けれども、どうにもそれらの批判や非難が往々にして上滑り、皆に白けられてしまうのは、端的にいえば『艦これ』が旧日本軍ではなく戦後の自衛隊(の理念的なありよう)だからなんである。もしくは、自衛隊の「平和のための開かれた自衛力」というエクスキューズをうまく応用した結果だとも言える。

 正確に言うなら、アニメ化以前の、軍艦に熱狂したプレイヤー達に関してはミリオタ批判というのは一定程度の正しさはあるわけだけれど。


 しかし、アニメ版『艦これ』はさらに先の事態へ突入してしまった。

 周知の通り、最終話で艦娘達はかつての「ミッドウェー海戦」を勝利によって超えていった。この1クールにおける「暁の地平線に勝利を刻む」は、太平洋戦争の転換点となるミッドウェー海戦に勝利する、だったということになる。

 そうやって歴史を超えることは、いったいどういう意味を持っているのだろう?ここから先は架空戦記の領域に入るわけだけれども、歴史のくびきを脱した艦娘たちは、ぐるぐるとめぐる閉じられた「反省」と「訓練」の時期を超え、どうなるのだろう。列記とした「艦隊」になるのだろうか。それともまた違うものになっていくのだろうか。

 『艦これ』が現実の政治、要はいまの自衛隊をめぐる動きにリンクするのはこの点だ。だからといって一足飛びに批判されるものではなく、現実の動きを反映しているだけということもできる。しかし、あまりに無邪気な接近に、どうにも居心地の悪さを筆者は感じる。

 さてさて。